シュナイダー・トロフィー・レースとは、1913年から1931年に開催されていた水上機スピードレースで、開催年度を見るとなんと、ライト兄弟が人類初の原動機付き飛行機の初飛行に成功した年から、僅か9年後です。
フランスのジャック・シュナイダーの主催で開催されたこのスピードレースは、当時はフラップ等を持たない航空機の為、陸上機では離着陸速度を抑えることが出来ず管理下された長い滑走路も不可欠であった理由から、高速機として実用しやすい水上機でのスピードレースとなっていました。
途中、第一次世界大戦による競技停止期間がありましたが1913~31年までの間に計12回が開催され、国やメーカー、技術者の威信を掛けた白熱したレース人気は、開催を重ねるほど拍車がかかり1931年最後の大会では観客動員数50万人を越える程の一大イベントでありました。
5年の間に3回優勝するとトロフィーが永久所持出来るという名誉を与えられてレースの開催を終了するというルールで、当初は先進航空国であったフランス、イギリス、イタリア間で争われ、その後、アメリカが参加し(フランスは途中で脱落)、アメリカもイタリアも一度は5年間に3回目勝利のチャンスを掴みましたが果たせず、最終的にはイギリスがスーパーマリンS6Bで平均速度547.305km/hで優勝、1927年・1929年に続き5年間に3回目の勝利でトロフィーの永久保持の権利を得て本レースは終了となりました。
このシュナイダー・トロフィー・レースは、現在のF1カーレース等と同じように、各国チームが威信をかけて航空技術をぶつけ合い、後年の傑作機を生む土壌を生み出しました。
有力チームとしては、英国のスーパーマリーン、米国のカーチス、イタリアのマッキやサボイア、ピアッジオ等が国を代表して機体設計を行ない、人物では、後年に名設計士と名を馳せてスピットファイアを生み出す英国のレジナルド・ミッチェルと、イタリアの設計技師マリオ・カストロフィが常に優勝争いを行なうライバル関係でした。
また、1925年に優勝した米国のカーチスR3C-2という機体のパイロットは、なんと後年にB-25ミッチェルで洋上から発艦して東京初空襲をおこなったジミー・ドゥーリトルでありました。このカーチスR3C-2が優勝したときにイタリアから出場していたのが、映画「紅の豚」で主人公の豚が愛機として有名になったサボイアS21試作機です。
搭載エンジンではやはり英国のロールスロイス製と、イタリアのフィアット製等がしのぎを削りました。
そのレース用エンジンは1929年の時点で、英国のスーパーマリン機がロールスロイス製のR2350(最高馬力2,350馬力)で勝利し次回で3回目勝利の王手をかけました。なんとしても2年後の英国の勝利を阻止したいイタリアは、その対抗手段としてフィアット製12気筒1,500馬力のAS5というエンジンを直列に連結したAS6エンジン(合計が24気筒2,500馬力)を設計し、二重反転プロペラ式で実用化しようと切磋琢磨しましたが、その完成が1931年のレースに間に合わず惨敗し、イギリスがスーパーマリンS6Bにてシュナイダートロフィーを永久獲得し閉会しました。
しかしそのマッキボディにファイアットエンジンのコンビは、シュナイダートロフィーレース終了後も開発が続けられ、最終的に3,000馬力以上にパワーUPされて、マッキMC72というレース用水上機で1934年に700km/h超という世界記録を打ち立てる事になる。このレシプロ水上機のスピード記録は現在でも破られていないから凄い。
最終優勝したイギリスのスーパーマリン&ロールスロイスのコンビも凄かったが、ことシュナイダー・トロフィーを一大イベントとして牽引して毎回優勝争いに食い込んでいたのはイタリアであった。イタリアの出場機種を数点(レース機は赤がシンボルカラーであった)、ここに画像で掲載しましたが、そのフォルムはなんとも優美で、第二次世界大戦時のイタリア空軍機とは全くイメージが違いますよね。シュナイダートロフィーが終了して約10年で、何故あんなヘタリアになったのでしょう?
フランスのジャック・シュナイダーの主催で開催されたこのスピードレースは、当時はフラップ等を持たない航空機の為、陸上機では離着陸速度を抑えることが出来ず管理下された長い滑走路も不可欠であった理由から、高速機として実用しやすい水上機でのスピードレースとなっていました。
途中、第一次世界大戦による競技停止期間がありましたが1913~31年までの間に計12回が開催され、国やメーカー、技術者の威信を掛けた白熱したレース人気は、開催を重ねるほど拍車がかかり1931年最後の大会では観客動員数50万人を越える程の一大イベントでありました。
5年の間に3回優勝するとトロフィーが永久所持出来るという名誉を与えられてレースの開催を終了するというルールで、当初は先進航空国であったフランス、イギリス、イタリア間で争われ、その後、アメリカが参加し(フランスは途中で脱落)、アメリカもイタリアも一度は5年間に3回目勝利のチャンスを掴みましたが果たせず、最終的にはイギリスがスーパーマリンS6Bで平均速度547.305km/hで優勝、1927年・1929年に続き5年間に3回目の勝利でトロフィーの永久保持の権利を得て本レースは終了となりました。
このシュナイダー・トロフィー・レースは、現在のF1カーレース等と同じように、各国チームが威信をかけて航空技術をぶつけ合い、後年の傑作機を生む土壌を生み出しました。
有力チームとしては、英国のスーパーマリーン、米国のカーチス、イタリアのマッキやサボイア、ピアッジオ等が国を代表して機体設計を行ない、人物では、後年に名設計士と名を馳せてスピットファイアを生み出す英国のレジナルド・ミッチェルと、イタリアの設計技師マリオ・カストロフィが常に優勝争いを行なうライバル関係でした。
また、1925年に優勝した米国のカーチスR3C-2という機体のパイロットは、なんと後年にB-25ミッチェルで洋上から発艦して東京初空襲をおこなったジミー・ドゥーリトルでありました。このカーチスR3C-2が優勝したときにイタリアから出場していたのが、映画「紅の豚」で主人公の豚が愛機として有名になったサボイアS21試作機です。
搭載エンジンではやはり英国のロールスロイス製と、イタリアのフィアット製等がしのぎを削りました。
そのレース用エンジンは1929年の時点で、英国のスーパーマリン機がロールスロイス製のR2350(最高馬力2,350馬力)で勝利し次回で3回目勝利の王手をかけました。なんとしても2年後の英国の勝利を阻止したいイタリアは、その対抗手段としてフィアット製12気筒1,500馬力のAS5というエンジンを直列に連結したAS6エンジン(合計が24気筒2,500馬力)を設計し、二重反転プロペラ式で実用化しようと切磋琢磨しましたが、その完成が1931年のレースに間に合わず惨敗し、イギリスがスーパーマリンS6Bにてシュナイダートロフィーを永久獲得し閉会しました。
しかしそのマッキボディにファイアットエンジンのコンビは、シュナイダートロフィーレース終了後も開発が続けられ、最終的に3,000馬力以上にパワーUPされて、マッキMC72というレース用水上機で1934年に700km/h超という世界記録を打ち立てる事になる。このレシプロ水上機のスピード記録は現在でも破られていないから凄い。
最終優勝したイギリスのスーパーマリン&ロールスロイスのコンビも凄かったが、ことシュナイダー・トロフィーを一大イベントとして牽引して毎回優勝争いに食い込んでいたのはイタリアであった。イタリアの出場機種を数点(レース機は赤がシンボルカラーであった)、ここに画像で掲載しましたが、そのフォルムはなんとも優美で、第二次世界大戦時のイタリア空軍機とは全くイメージが違いますよね。シュナイダートロフィーが終了して約10年で、何故あんなヘタリアになったのでしょう?
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