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 特に秀でた空戦性能を持っていない機体にも関わらず、プロペラ回転圏内から銃撃出来るフォッカー・アイアンデッガーは、操縦者の視線と、機体機動が同一軸線上で一致する為、革新的な銃撃命中率を発揮して「フォッカーの懲罰」と恐れられ、有名な「ベルケの格言」を残すオスヴァルト・ベルケや、「イメルマン・ターン」という空戦マニューバを生み出すマックス・イメルマン等が活躍する事になりました。

 連合国側はもちろん対抗出来る戦闘機の開発に勤しむ事になります。
 まず、アイアンデッカーの対抗馬としてフランスが実用配備してきたスパッドA.2という複座の機種。前出のモランソルニエNと共に実戦に出動しましたが、この機種の機関銃搭載は機首の先端。プロペラは射撃に邪魔なので機銃手席をゴンドラ式にしてその後方に付けちゃった(右下図の機銃手席アップを参照)。この配置、確かに機体機動と同一軸線上にありますが、機銃手はペラが後ろにあって吸い込もうとする空力が半端では無い。金属パイプ状のガードは付いてますが激しい機動を行なった時に機銃手が吸い込まれたり、ゴンドラ自体が外れたりする事故が続出して、敵ではなく味方から恐れられた為、ロシア帝国へ売却。
 売るほうも何ですが、買うほうも何ですね。
 
 フランスはその後、ニューポール11という機種を開発。この機種は上翼の中央に機銃を配置して、一応ながら機体機動と同一軸線上にした機体。しかしこの機体、複葉式の下翼が小さく一葉半と呼ばれる翼を持ち、未完成の形ながらエルロンを備えており空戦能力に長けていました。
 
 英国は「対アイアンデッカー機種」として、1915年末にF.E.2と、1916年2月にエアコーDH.2を実戦配備。この2機種は、機銃を機体機動と同一軸線上に配するためにプッシャー式(推進式エンジン)を採用し、アイアンデッガーに対抗できる性能を備えた機種となりました。そして単座戦闘機だけの戦闘機隊を配備し、フランス空軍機のニューポール11と共にアイアンデッカーに応戦して「フォッカーの懲罰」を終結させる事が出来ました。

 その後、各国ともアイアンデッカーのプロペラ同調機銃を研究開発し、より正確に動作する装置(根本的な仕組みは同じ)を実用化させて、ドイツ軍のフォッカーDシリーズ、英国のソッピーズ・キャメル、フランスのニューポール21などの名機が生み出され、更なる過酷なドッグファイトにつながる事となります。
 
 

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 戦闘機にとって、「敵機を撃墜する」という任務はとても重要な任務です。まだ航空機創世記の第一次世界大戦初期の頃、100馬力に満たないエンジンを搭載して150km/h前後の速度で低空を飛ぶのがやっとの状態で、当初は敵陣地の偵察しか使えなかった。やがてお互いにその偵察を妨害する為、石や拳銃やライフルで攻撃するようになり1915年頃から機関銃を搭載した戦闘機が出現するようになります。

 その機関銃・機関砲の搭載ですが、複座戦闘機で機銃手を載せた場合はやっぱり単座戦闘機の機動性に敵いませんし、銃撃の命中率を得るには操縦士の視線と機体の機動が同じ軸線で一致する操縦席のすぐ前が良いのは判りますが、自機のプロペラが邪魔です。そこで、各国の戦闘機はいろいろな試行錯誤をしてゆきますが、当初はプロペラの旋回範囲をどうかわして搭載するかです。主翼の中ほどに搭載した場合、その銃弾収束率が悪く当時の技術としては弾薬数もネックでした。また、複葉機の上翼の上面に搭載して、プロペラ旋回範囲を上からかわす機体もたくさん登場しましたが、決定的な効力はありませんでした。

 そんな中、フランスのモラン・ソルニエ社の技師レイモン・ソルニエは、機銃同調装置の研究を熱心に行なっていましたがその開発は難航していた為、その発想を転換して今度は防弾デフレクター付きのプロペラをモランソルニエL、続いてモランソルニエN機に取り付けました。上の写真のように、自機から発射される銃弾がこのデフレクターにあたると後転方向に跳ね返るという仕組みで乱暴な搭載方法でしたが、プロペラ回転圏内から銃撃出来る能力は絶大でした。しかし、防弾デフレクターを持ってしてもプロペラを折ってしまう事も多くて生産49機にて終了します。

 そのモランソルニエ機を墜落機ながら鹵獲したドイツ軍は、プロペラ回転圏内への機銃搭載研究に拍車がかかります。

 当初はドイツのフォッカー社もプロペラ防弾板を使った搭載方法を研究しますがうまく行かず、既に特許を取得していた「シュナイダー式プロペラ同調装置」を発見し無許可で改良して、フォッカーE.Iの実用化にしました。この装置のカラクリはプロペラ回転軸にカムノーズを2カ所(2翅の場合)付け、銃口の前をプロペラが通過する時に引き金を引いても発射装置が動作しない構造になっています。

 ちなみに戦後、フォッカーは発明者フランツ・シュナイダーにより特許の侵害で訴えられるも、敗戦によって航空機全面禁止となったドイツを捨てオランダへ逃亡し、裁判はうやむやになってしまいました。

 話を戻して、このフォッカー・アイアンデッカー、1915年8月の実戦始動により空戦の革命を起こし、ドイツ空軍が完全に制空権を握る程の絶大な能力を発揮します。1916年に至るまで、連合軍からは「Fokker Scourge(フォッカーの懲罰)」と呼ばれて猛威を振るった期間を作りだしたほど、強力な戦闘機として君臨しました。アイアンデッカーはフォッカーE.ⅠからE.Ⅳまで派生型がありE.Ⅲがもっとも生産されて、恐れられたた機体でした。

 さて、1915年8月~1916年中頃までヨーロッパの空を制したフォッカー・アイアンデッカーでしたが、新たな敵機種が現れます。この続きは次回に致しましょう。

 
 

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