第一次世界大戦で戦勝国となったフランスは、その終結時点で間違いなく最強の陸軍と航空占領を所持していた。そしてドイツから被った150万近い犠牲受けた為、ドイツに対して並々ならぬ警戒心を持っていたのは事実で、敗戦国ドイツの対して過酷な罰を課す事に強固な姿勢を崩さなかった。この事がドイツ人を深く憤らせ両国の仮想敵国感情は変わるものでは無かった。
しかしその後フランスは、他の戦勝国でも起こった軍縮の動きと緊縮財政。そしてフランス国内の深刻な政情不安を抱えて、軍事思想が停滞。1933年にはイギリスに続いて、航空隊を陸軍より独立されて空軍を設立するが、第一次大戦での陸軍主体の軍事思想の思考はそのままで、今後も陸軍力による塹壕戦をもう一度繰り返す思想しか持てなかった。
そしてフランスは巨額な軍事予算を、直接ドイツに接する国境に膨大な長さの要塞郡を建設。マジノラインと呼ばれるこの防御要塞を持ってすればドイツ軍が再来した場合にも完璧に防御出来ると踏んでいた。しかしその反動は、今後の戦闘の主力となるべき航空戦力の停滞を招く事になるのは当然の事。
実際、この当時の航空機新技術の実用化スピードは速く、イギリスやアメリカが限られた予算の中でより優れた軍用機を目指して切磋琢磨していたのと違って、フランスがWWⅡまでに開発設計した軍用機は、何れもが部隊配備の時点では一世代前の機種がほとんどで、ドイツが1935年に再軍備宣言してからもまだマジノライン神話を所持し続けている。1937年になると有能な航空将官たちがあわてて「空軍近代化」を計画するも、近代化軍用機がすぐに量産出来る訳も無く、アメリカから極秘で輸入手続きするのがやっとの状態であった。
そして1939年にとうとうドイツ軍がポーランドへ侵攻しWWⅡが勃発。この時点で主力戦闘機はやっと500機ほど揃ったモランソルニエMS.406。そしてアメリカから購入したカーチス・ホーク75(P-36ホークの輸出型)が約170機、まだまだ完成した型式と言い難いブロック151/152が約120機。レーサー用から急遽軍用化したコードロンC.174が10機以下。双発長距離戦闘機として配備されていたポテ63シリーズが約300機。フランス戦闘機最強と期待されているドボジアンD.520はまだ開発途中。
1940年1月にとうとう、ドイツ軍はフランスへ向けて侵攻開始。さあ、巨額な予算を投じて建設したマジノラインでドイツ軍を食い止める事が出来るか!
ドイツは、マジノラインへ向けて攻めては来ずに、オランダ・ベルギーを蹂躙しながら鮮やかな電撃戦を展開して北フランスから侵入。あっという間に、パリを占領してしまったとさ。
その間、フランス空軍はどうしていたのか?実は、フランス戦闘機部隊はうまく会敵するとドイツ空軍相手にかなり善戦しています。しかし、イギリスの陸空軍の派遣部隊も応援に来ていながら、戦力の小出しや指揮系統の混乱で、陸上での戦いはドイツ軍の機動力ある部隊に追い回される一方で、前線基地は後退繰り返しでした。フランス空軍部隊がドイツ爆撃機迎撃に出動して基地へ戻ってくると滑走路は既にドイツに占領されていたりしました。5月28日にはダンケルクへ追い詰められたフランス・イギリス両主力軍はイギリス本土へ撤退。6月14日にはパリ陥落。6月21日にドイツ傀儡政権となるフィリップ・ペタンを首班をする新政府がドイツに休戦申し込んで独仏休戦協定が締結される(事実上フランスの敗戦)。
フランス新政府(ヴィシー政権)は、南フランスの領有をドイツから認められ枢軸軍の仲間入りするハメになりました。
なぜ、わざわざこのフランスの情勢を書いたかというと、この先のフランス人パイロット達の物語や、当時のフランス植民地の動きが面白いんですよね。あるものはヴィシー政権に忠誠を誓ってイギリス空軍相手に果敢に戦闘したり、あるものは、イギリスへ渡って自由フランス空軍に所属、あるものはソ連で、ノルマンディー・ニエメンのメンバーへ。
ということでこの続きの物語はまた次の機会で。
しかしその後フランスは、他の戦勝国でも起こった軍縮の動きと緊縮財政。そしてフランス国内の深刻な政情不安を抱えて、軍事思想が停滞。1933年にはイギリスに続いて、航空隊を陸軍より独立されて空軍を設立するが、第一次大戦での陸軍主体の軍事思想の思考はそのままで、今後も陸軍力による塹壕戦をもう一度繰り返す思想しか持てなかった。
そしてフランスは巨額な軍事予算を、直接ドイツに接する国境に膨大な長さの要塞郡を建設。マジノラインと呼ばれるこの防御要塞を持ってすればドイツ軍が再来した場合にも完璧に防御出来ると踏んでいた。しかしその反動は、今後の戦闘の主力となるべき航空戦力の停滞を招く事になるのは当然の事。
実際、この当時の航空機新技術の実用化スピードは速く、イギリスやアメリカが限られた予算の中でより優れた軍用機を目指して切磋琢磨していたのと違って、フランスがWWⅡまでに開発設計した軍用機は、何れもが部隊配備の時点では一世代前の機種がほとんどで、ドイツが1935年に再軍備宣言してからもまだマジノライン神話を所持し続けている。1937年になると有能な航空将官たちがあわてて「空軍近代化」を計画するも、近代化軍用機がすぐに量産出来る訳も無く、アメリカから極秘で輸入手続きするのがやっとの状態であった。
そして1939年にとうとうドイツ軍がポーランドへ侵攻しWWⅡが勃発。この時点で主力戦闘機はやっと500機ほど揃ったモランソルニエMS.406。そしてアメリカから購入したカーチス・ホーク75(P-36ホークの輸出型)が約170機、まだまだ完成した型式と言い難いブロック151/152が約120機。レーサー用から急遽軍用化したコードロンC.174が10機以下。双発長距離戦闘機として配備されていたポテ63シリーズが約300機。フランス戦闘機最強と期待されているドボジアンD.520はまだ開発途中。
1940年1月にとうとう、ドイツ軍はフランスへ向けて侵攻開始。さあ、巨額な予算を投じて建設したマジノラインでドイツ軍を食い止める事が出来るか!
ドイツは、マジノラインへ向けて攻めては来ずに、オランダ・ベルギーを蹂躙しながら鮮やかな電撃戦を展開して北フランスから侵入。あっという間に、パリを占領してしまったとさ。
その間、フランス空軍はどうしていたのか?実は、フランス戦闘機部隊はうまく会敵するとドイツ空軍相手にかなり善戦しています。しかし、イギリスの陸空軍の派遣部隊も応援に来ていながら、戦力の小出しや指揮系統の混乱で、陸上での戦いはドイツ軍の機動力ある部隊に追い回される一方で、前線基地は後退繰り返しでした。フランス空軍部隊がドイツ爆撃機迎撃に出動して基地へ戻ってくると滑走路は既にドイツに占領されていたりしました。5月28日にはダンケルクへ追い詰められたフランス・イギリス両主力軍はイギリス本土へ撤退。6月14日にはパリ陥落。6月21日にドイツ傀儡政権となるフィリップ・ペタンを首班をする新政府がドイツに休戦申し込んで独仏休戦協定が締結される(事実上フランスの敗戦)。
フランス新政府(ヴィシー政権)は、南フランスの領有をドイツから認められ枢軸軍の仲間入りするハメになりました。
なぜ、わざわざこのフランスの情勢を書いたかというと、この先のフランス人パイロット達の物語や、当時のフランス植民地の動きが面白いんですよね。あるものはヴィシー政権に忠誠を誓ってイギリス空軍相手に果敢に戦闘したり、あるものは、イギリスへ渡って自由フランス空軍に所属、あるものはソ連で、ノルマンディー・ニエメンのメンバーへ。
ということでこの続きの物語はまた次の機会で。
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