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 アメリカ陸軍航空隊の命名規則は、例外も一部あるが基本的に規則通りに命名されています。今回掲載したものは1924年から1948年(前年に空軍として陸軍から独立)迄の命名方式であり、それ以降は「戦闘機」の任務記号であったP(Pursuiter)をF(Fighter)に改めた為、空軍設立期間中に開発・改良されていた戦闘機は、機体名が変更された機種も多いです。
 海軍機と違って、メーカー名が機種名に表示されていません。

 接頭記号…試作機の場合のみ X が付けられる
 任務記号…任務を表す英字。 Pなので追撃機
 番号…任務毎の連続番号。 追撃機として51番目
 設備記号…装備品の変更や改設計が入るとAから順に英字を順番に割り当てる。                Dなので4つ目の装備・改設計
 愛称…メーカーが与える。メーカーごとの一定の傾向があったるする。                      ムスタングとは荒馬という意味

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 ドイツ海軍が建造しようとした航空母艦グラーフ・ツェッペリン。本艦は1938年に進水したが、ドイツ海軍の戦略構想が潜水艦による通商破壊作戦を優先する為にUボート建造に集中する事となり1940年に艤装工事が一旦中断されたり、建造再開するもバルジ装着の追加や搭載させる艦載機問題に手間取っている間に大型艦製造中止命令(1943年春)が出たため、工事は完全に中止となり未完成で終戦を迎えた艦である。

 艦載機の問題も、どの機種にするか等の選定以前から問題が出ていました。ドイツ空軍元帥のゲーリングが、「空を飛ぶ兵器は全部空軍管轄だ~」と吼えて断固反対するもんだから大騒動になったらしいです。

 で、今回のコラムは、仮説「グラーフ・ツェッペリンが完成していたら」っていう話を書こうと思います。仮説の前提は、1943年に建造中止とならず、逆に「重点生産兵器とされて急ぎ儀装して完成した」、「艦載機は当初予定していた機種を搭載出来た」の二点とした場合です。

 仮説で話を進めると、完成時期はいくら急いでも1943年の秋ですね。その頃のヨーロッパ戦況で言えば、イタリア半島に連合軍が上陸してイタリアが降伏しちゃうのが1943年9月。東部戦線ではドイツ機甲部隊がウクライナまでずるずる押し返されている頃ですね。ノルマンディ上陸はまだですね(1944年6月6日)。でも、もうこの頃のドイツでは米英爆撃機に空襲を受けだした頃だから、いよいよ戦争がやばくなって来ています。そこでグラーフ・ツェッペリンの出撃ですが、建造工事はバルト海沿いのキール軍港でしたから当然完成地もキールです。当時ならB-17フライングフォートレスなどの長距離大型爆撃機に空襲される位置にあるので慌てて出撃しないと行けない状況です。

 搭載した艦載機は、予定していた4機種を積みます。戦闘機は二機種。Bf109Tという機体が主力です。この戦闘機は傑作機メッサーシュミットBf109のE-4型を元にして艦上戦闘機に改造した機体です。カタパルトフックとアレスティング・フックを追加、主脚強化、主翼延長し翼端を折りたたみ式に改造してあって強そうやん。

 「あ~!でもダメです」、艦載機として致命的な欠陥がありました。左右の主脚間隔が狭くて空母甲板への着艦が極めて難しい。元々からBF109の弱点なんだから、なんで艦上戦闘機への改造でそれを直さないのしょう。

 では、もう一種の戦闘機にがんばってもらおう、Bv155ですね。メッサーシュミット社が当初開発した設計をブローム&フェス社が引き継いだもので、言わばグラーフ・ツェッペリンの為に設計した新機種です。

 「あ~!でのダメです」、ターボ過給機のトラブルで満足に飛行出来てません。Bf109Tなら発艦だけは出来る(着艦も10機のうち5機ぐらいは無事降りれるかな)から、まだBf109Tのほうがマシでした。

 仕方ないですから艦上爆撃機に期待しましょう。搭載機種はJu87D-4です。ベースは名機スツーカーだし、航続距離がが少し伸びて1,500km、魚雷攻撃も出来てバッチリだ。

 「あ~!でもダメです」、無武装で最高速度が410km/h、魚雷搭載したら300Km/h以下だ。第二次世界大戦当初だったらこの速度で良いんだろうけど、今時なら護衛戦闘機をたくさん付けなきゃ攻撃地点にたどり着けないやん。やっぱもうスツーカーは旧式化しちゃったんだなぁ。敵戦闘機はスピットファイアMkⅤやシーファイア。米軍にはP-38が居るし、P-51Dも実戦配備されて来てるって話じゃん。


 もう一機、雷撃専用の新型機があったなぁ。それはFi167。

 「あ~!でもダメです」、複葉機じゃん。しかも最大速度が無武装で325km/hって、1,000kgのドイツ魚雷積んだらどんだけ遅くなるねん。イギリス海軍でもこんな機体、この時期に新規採用しないぞ。

 「あ~あ」。仮説でグラーフ・ツェッペリンの大活躍の話を進めようとしましたが、やっぱり無理でした。なぜフォッケウルフFw190A系統を艦載機化しなかったんだろう?一番手っ取り早くまともな艦載機が出来そうで、空冷で整備もしやすいし、戦闘機だけでなく雷撃タイプも陸上型であったから無難にこなせそうなのなぁ。

 仮にMe262やTa152の艦載機バージョンが出来るまで出撃を待っていたらどうだったでしょう。

 「あ~!でもダメです」、1945年4月9日のキール軍港空爆でポケット戦艦アドミラル・シュアーとともに沈没ですね。

 やっぱ、航空母艦の有効運用って、ちょっと4・5年試行錯誤したぐらいではダメなのね。フランス・イタリア・ソビエトも有効利用出来ずにそろってこけたし。

 

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 1939年、ソビエト赤軍は主力戦闘機ポリカルポフI-16の後継機を求めて、新進気鋭の設計局も含めて設計競争を要求。たぶん独裁者スターリンの鶴の一声だったんだろうなぁ。という訳で、参加した(させられた?)のは、老舗のポリカルポフ設計局、ラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ設計局(長いので以降はラボーチキン設計局と呼ぶ)、ヤコブレフ設計局。
 後にポリカルポフ設計局から暖簾分けされたミヤコン・グレビッチ設計局(長いので以降はミグ設計局と呼ぶ)も加わっての設計コンテストの様になった。
 1939年といえばドイツ軍が電撃戦にてポーランドを占領した年。その時にまだI-16の後継機が決まってないのだから、かなり出遅れてるわな。まあそういう事で慌てて各設計局に指示した訳で、基本構想設計を「西ヨーロッパで実戦化されつつある液冷エンジンの高速単座戦闘機と同じようなやつ」という要求を掲示した。言い換えれば、ソビエトで名機スピットファイアやBf109を作れって言う事。
 まず設計提出してきたのはポリカルポフ設計局。1937年から構想していたとされる機体で、I-17という機体名を付けて原型機製作に入ったが、諸々のトラブルが多発した為に開発は即中止。その後も起死回生でI-17を空冷エンジン(シュベツォフ)に換装したI-18を開発したが、これまたテスト飛行中に墜落し、あえなくボツ。このボツを気にどんどんポリカルポフ設計局は没落して行くんだなぁ。
 次に設計提出があったのはラボーチキン設計局。LaGG-1と名づけられたその機体は、クリモフM-105液冷エンジン搭載。液冷エンジンを搭載した割には機首下の潤滑油空気取り入れ口、及び胴体下のラジエターの関係からかモサ~としていた。まあ見た目はモサ~としてても良いけど、木製ボディは強度を上げるためにプラスチックを溶かして塗りこんでありボディが重い、当然エンジン負荷が大きくて問題発生。直ぐに過給器付きのクリモフM-105Pシーリーズにエンジン換装してLaGG-3と命名。ソビエト赤軍当局としても、いつ世界大戦に巻き込まれるかわからない時期に来ているのは判っている。しかも I-16ではBf109E型に全く敵わなかったのはスペイン内戦ではっきりと認識していた。って訳でこのLaGG-3の量産化を決定。1944年まで総計6500機製造される事となるのだが、操縦安定性が悪くパイロットには不評であった。

 ヤコブレフ設計局は計画提出が少し遅れていたが中々良さげ設計を提出。原型機は翌年の1940年1月となってしまった機体は、Yak-1と命名。このYak-1が操縦も素直で特に低空域性能はすこぶる良い。という事でI-16の本命に躍り出る事になって、速攻で重点生産機種に指定。ということで、このYak-1は総生産8721機作られる事になる。

 少し遅れて参加したミグ設計局は、LaGG-3の量産化を見て一工夫して来た。高高度迎撃機として設計を仕上げたのである。原型機は1944年4月に出来てMiG-1と命名。見た目は一番カッコイイ。試験段階で時速648kmをたたき出したが、あらあら、運動能力がかなり不足。高高度迎撃機だから少々の運動不足は目をつぶるにしても、失速速度も高いので、着陸が危なっかしい。まあ、でもとりあえず100機量産して戦闘機の数を増やす事にした。そして直ぐに改良版の開発を命じられてMiG-3が同年10月に完成。胴体延長やラジエター位置変更など施されたがまだ着陸速度が早くて不正地な飛行場では使えないシロモノ。エンジンは液冷のミクリーンAM35A(1350馬力)で上昇力はかなり良いんだがなぁ。でももうこの時期にはドイツ・イタリアは、イギリス・フランスと全面戦争に入っている頃なので、ソ連としても悠長に改良してる暇は無い。とりあえずMiG-3も量産だって事で、結局総生産3000機も作った。このMiG-3って、着陸速度の速さからソビエトパイロットから非常に嫌われ者だったらしです。でも、大きな声でそれを言うとシベリアへ流刑です、当時のソビエトは。

 と、いう事で、第二次世界大戦で戦闘機を担当する新進気鋭の設計局(ラボーチキン設計局、ヤコブレフ設計局、ミグ設計局)が揃い踏みした訳です。○○-1という機種番号で比べてみると、Yak-1の設計が優れてたのがはっきりと判ります。もちろん、そのYak-1は発展開発されてYak7、Yak9、Yak3と朝鮮戦争前半まで主力級戦闘機設計を続けて行く事になります。そんなヤコブレフ設計局は、朝鮮戦争以後は政治的理由にも恵まれず戦闘機分野から追い出される形で旅客機設計に転向してしまう事となるからさびしいものです。
 ミグ設計局は、MiG-3のあとは一旦落ちぶれてしまい、戦後にMiG-15という傑作ジェット戦闘機を生み出してジェット戦闘機では主力設計局となります。
 ラボーチキン設計局は、戦時中にはYak戦闘機のサブ的存在に甘んじるもののLaG-5、LaG-7と量産戦闘機を開発していきますが、ジェットの時代になると試作機を大量に作るも実用機に至ったのはMiG-15と競合したLa-15(それも生産数は僅か)のみで、1960年にラボーチキン氏本人の他界により設計局は閉鎖されてしまいます(後に復活するが三流設計局でしか無かった)。
 そして、忘れてはいけないのが、スホーイ設計局。Yak-1に遅れること数ヶ月の1940年秋に、排気タービン付きの高々度戦闘機Su-1を設計するが、LaGG-1とYak-1の量産化を重要生産機種と指定した後であったため当然注目される事も無く、挙句にはモスクワ郊外からウラル地方への工場疎開中に機体が破損してしまい機体破棄。1942年に改良型を開発しSu-3と命名されるが、排気タービンが依然とよろしくなく開発中止命令を受けたのでありました。そのように不運続きだったスホーイ設計局はジェット戦闘機時代になってMiG設計局に継ぐ二番目の戦闘機設計局までのし上がり、近年Su-27フランカーの設計によってロシア戦闘機設計局の頂点に就く事になったのです。

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まずは、隠しサイトでの軍用機コラムをちょこっと転載してみます。

いまいち、画像の位置がよくわからん
しかも、広告画像がデカイ
    ↓

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