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 第二次世界大戦当時、連合軍・枢軸軍とも女性パイロットは存在していました。まず、ソ連を除いた国で見てみると、各国で少数見られ、前線に出撃する訳でなくプロパガンダ的に冒険飛行(ドイツのハンナ・ライチェ等)や後方輸送飛行部隊のパイロットでした。尚、英国では早くから婦人部隊が補助航空部隊で活躍しており、前線基地への戦闘機搬送にも従事したようです。米国でも女性のみの飛行隊(空輸部隊WASP)が結成され後方支援の輸送を行なっていました。

 ソ連では他国での扱いと違っていました。共産主義のタテマエは平等社会です。だから国家の為に戦争で戦うのも男女平等だ。と言うタテマエ(実際は兵士不足で女性でも戦場に立たせたかっただけ)で、陸海軍とも沢山の女性を最前戦に送っています。もちろん、ソ連空軍でも整備士、管制官、基地防衛隊などに従事させています。愛国心やドイツに対する敵愾心から自らパイロット志願して活躍したうら若き女性達もいて、中でも有名なのが戦後に「出撃!魔女飛行隊」(原題は「Night Witches」)という本にもなった飛行隊がありました。

 ドイツ軍の電撃奇襲「バルバロッサ作戦」によって国土にどんどん攻めこれ、戦力を激しく消耗したソ連空軍は志願兵を募った所、民間飛行クラブ等で飛行訓練を積んだ女性達も複数応募してきました。最初は断っていたのですが、1941年末より戦局の深刻な状態が明らかとなり、高名な女性飛行家のマリーナ・ラスコーヴァがスターリンの許可を得て、民間飛行士や飛行クラブから選抜した若き女性達約1,200人を女性だけの3つの飛行連隊(586女子戦闘機連隊、587女子爆撃機連隊、588夜間爆撃機連隊)を創設し、ラスコヴァ自らが司令として着任。この3つの連隊はパイロットだけで無く、整備士から管制官まで400名の要員全てが女性で編成されていました。そしてこの女性飛行隊が後にドイツから図らずも“魔女飛行隊”と恐れられる存在になったのです。

 587女子戦闘機連隊は、主にYak-1を運用し、スタリーングラード攻防戦で最前線の激しい制空権争いを行なう程の飛行連隊でした。中でも、168回の空戦に出撃し敵機を公式スコアで12機撃墜、3回目の被弾墜落にて22歳の若さで戦死したリディア・リトヴァクがもっとも高名。彼女の愛機Yak-1の胴体には白い薔薇のマークが描かれていて、ドイツ軍パイロットから「スターリングラードの白い薔薇」と恐れられ、数々のエピソードが現在でも伝わっています(戦後にスイスで生存していてTVに写っていた説もありました)し、レーニン勲章、赤旗勲章、一等及び二等祖国戦争勲章、赤星勲章を受章しています。おまけにかなりの美人です。他にも、リディアと双肩の腕前で11機撃墜記録のエカテリーナ・ブダノワ、当時中隊長のオルガ・ヤムシュコワ、女性としての敵機撃墜第1号となったヴァレーリヤ・ホミヤコワなど、活躍した戦闘機パイロットが揃って居ました。

 587女子爆撃連隊は、当初はSu-1攻撃機を乗機としていましたが直ぐにPe-2襲撃機に転換し昼間時の襲撃任務を担当し、マリーナ・ラスコーヴァ自身が連隊を率いて激しい対空砲火を受けながらドイツ陸軍部隊の最前線に爆撃を敢行し続けました。ラスコーヴァは、1943年サラートフ近郊で戦死し、最終任官は少佐でした。

 588女子夜間爆撃連隊は、練習機として開発されたポリカルレフPo-2という最大速度150km/hの複葉機で編成され、その時代遅れな2名乗り旧式機でドイツ軍前線拠点を夜間奇襲攻撃する任務を担当しました。この爆撃任務は、搭載爆弾もも小さくイタズラ的に繰り返し行なわれ、爆撃威力よりも「ドイツ軍を眠らせない」という効果は相当なもので、彼女達はエンジンを止めて滑空で低空進入する戦法を編み出し多大なる戦果を挙げてゆきます。連隊司令のイエヴドキア・ベルシャンスカヤ、840回の夜間出撃をこなし戦争を生き抜いてレーニン勲章と赤旗勲章、ソ連英雄章を獲得したナターリャ・ミャクリン。リディア・リトヴァクの大親友で「出撃!魔女飛行隊」のメイン主人公となるナディア・ポポヴァなどが配属され活躍しました。

 魔女飛行隊以外にも前線で戦ったソ連女性パイロットは沢山居ます。中でもリディアに次いで有名なソ連の女性パイロットであったアンナ・エゴロア中尉。女性では扱いが難しいと評されていたIl-2シュトルモビク地上攻撃機に乗って277回の出撃をこなしドイツ地上軍から畏怖されていましたが、1944年8月に対空砲で撃墜されて戦死したのか、ドイツ軍の捕虜になったかは不明とされていましたが、ドイツ軍の捕虜収容所から1945年に開放された直後に、今度はソ連の内務人民委員部に逮捕されスパイ容疑の尋問にかけられた後に釈放されて、2009年までモクスワで存命でした。

 リディア・リトヴァクと、アンナ・エロゴアは是非、ウィキペディアも見てください。そしてもっとソ連の女性パイロットを知りたいと思ったら、「出撃!魔女飛行隊」も是非読んで下さい。私が初めて手にしたのは高価な本だったのですが現在では再刊されて文庫版で中古品で入手できます。殺伐とした軍隊の中にあって恋物語もあったり、タフで愛すべき女性パイロットのノンフィクションな戦記物語となっています。
 
PS: この小説を図書館で借りてきました。この本を読むのは3度目なんですけど、新幹線など電車に長時間乗ることが多かったのでまた一気に読みきってしまいました。 やっぱ夢中に読んでしまうほど、良い本ですわ。
 

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 太西洋横断飛行といえば、1927年5月20~21日、チャールズ・リンドバーグがライアンNYP(スピリット・オブ・セントルイス号)にてパリ~ニューヨーク間を無着陸飛行を記録したのが有名。しかしこの記録は、単独飛行の初記録であって、それ以前にも太平洋横断飛行を記録している公式記録が存在しました。

 まずは、もっとも早い記録として、「途中着水しながらの大西洋横断飛行」。アメリカ海軍中佐A.G.リード中佐をはじめとする搭乗員計6名(パイロットは正副2名)にて、1919年5月8~31日にかけてニューヨークのロングアイランド島~イギリスのプリマス軍港まで、アメリカ海軍カーチスNC-4飛行艇にて飛行している。横断飛行にかなりの日数を経ているのは、途中で悪天候のために、ニューファンドランド島やアゾレス島などで天候待ちを行なっている為でした。この冒険飛行は、同型のNC-1、NC-3号も参加しているがNC-3号機は途中で不時着水し、NC-1は夜暗と霧に阻まれて5月17日に2,270キロ先で乗員救助直後に海没している。


 そして本当の意味での大西洋無着陸横断飛行は、1919年6月14~15日にイギリス空軍将校ジョン・オルコックとアーサー・ブラウンが達成している。リンドバーグの記録より8年も早いのだ。ビッカーズFB.27ビミー複座爆撃機を改造した機体にて、ニューファンドランド島のセントジョン~アイルランドのクリフデン間の3,186kmを16時間12分かけて飛行に成功した。クリフデンに着陸の際には着陸事故さえ起こした程の危険な飛行(無事生還)であった。当時、イギリスの新聞社デーリーメール紙が太平洋無着陸横断飛行に賞金を懸けていたので、彼らはこの冒険飛行で£10,000を獲得している他、ナイトの称号も得ている。


 なぜ、リンドバーグのほうが有名になったのか?やっぱ、パリ~ニューヨークという大都市間を飛んでマスメディアで大きく取り上げられるし、なんと言っても単独操縦はすごい。レイモンド・オルティーグの25,000ドルの賞金£25,000も獲得して、「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名になった自伝も出してます。リンドバーグの話については、もっと続きのネタがあるのでまた今後のコラムネタに残しておきます。
 
 

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 パイロットであり、有名な作家でもあるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。もっとも有名な作品は「星の王子様」、児童図書ながら子供の心を失ってしまった大人に向けての示唆がふんだんにあふれている。そしてサン=テグジュペリ自身のパイロット経験を活かしたリアリズムあふれる作品となった「夜間飛行」。

 サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていくという人生を送り、常に冒険飛行に憧れ実際に数々の冒険的飛行を行なっている。
 スタジオジブリの宮崎駿氏は、彼の作品の愛読者として知られており、「紅の豚」や「ラピュタ」などの作品に出てくる飛行シーンは彼の影響を受けたと言われている。

 フランスのリヨンで1900年に生まれたサン=テグジュペリは、19歳で海軍兵学校入試に失敗。やむなく兵服志願して飛行連隊に入隊し、軍人として飛行練習生になったのちは、ひたすらに大空の夢を見る。兵役除隊後は予備役の士官パイロット(少尉)となり民間航空業界で郵便飛行士に就く。1926年(26歳)から作家デビューし自己の経験に基づいた作品を発表。特に世界中の航空業界から良くも悪くも注目される存在となっている。

 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、フランス空軍に招集され、飛行教官を務める。前線部隊への転属を強く希望するが戦闘機部隊も爆撃機部隊も年齢(39歳)を理由に拒否。世界的に有名な作家を失いたくない国情もあったが能力的にも無理であったらしい。それでもコネを屈指して偵察隊に配属されている。多大な損害を出してパリを占領されたフランスがドイツ軍に降伏となると、彼はヴィシー政権に残る事を拒否してアメリカへ亡命。

 ド・ゴールが、亡命先のイギリスで、対ドイツ徹底抗戦の「自由フランス軍」の結成を提唱すると、彼は亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。原隊であったⅡ/33偵察飛行隊への復帰を果たす。しかし、新鋭機に対する訓練飛行中に着陸事故を起こし飛行禁止処分を受けてしまう。それでもめげない彼はコネなどを使って必死に画策して1944年(44歳)に再びⅡ/33偵察部隊に復帰。コルシカ島に進出していたそのⅡ/33部隊にて、南フランス内部への強行偵察を画策し、ロッキードF-5B(P-38ライトニングのフランス版偵察機)に単機で出撃するが、地中海上空で行方不明となり帰還せず。

 戦後も長らく地中海で行方不明とされていたが、1950年代に問題のロッキードF-5Bの残骸が地中海のマルセイユ沖の海底で地元ダイバーが発見。しかしサン=テグジュペリの墜落現場候補とは認識されずになったままであったが、1998年にトロール船がロッキードF-5B水没地近辺でサン=テグジュペリのブレスレット(住所が刻まれていた)を発見し、2000年5月に本格的に海底調査でマスメディアに取り上げられ世界中に知られる事となった。2008年には、当時メッサーシュミットBf109のパイロットであったホルスト・リッパート(当時軍曹)が、サン=テグジュペリのロッキードF-5Bを現地上空で撃墜した事を証言。リッパート自身はその証言の中、「長い間、あのロッキードF-5Bのパイロットがサン=テグジュペで無い事を願い続けていた」と、「夜間飛行」や「星の王子様」の愛読者だった心情を語っている。
 
 
 

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 第一次世界大戦で戦勝国となったフランスは、その終結時点で間違いなく最強の陸軍と航空占領を所持していた。そしてドイツから被った150万近い犠牲受けた為、ドイツに対して並々ならぬ警戒心を持っていたのは事実で、敗戦国ドイツの対して過酷な罰を課す事に強固な姿勢を崩さなかった。この事がドイツ人を深く憤らせ両国の仮想敵国感情は変わるものでは無かった。

 しかしその後フランスは、他の戦勝国でも起こった軍縮の動きと緊縮財政。そしてフランス国内の深刻な政情不安を抱えて、軍事思想が停滞。1933年にはイギリスに続いて、航空隊を陸軍より独立されて空軍を設立するが、第一次大戦での陸軍主体の軍事思想の思考はそのままで、今後も陸軍力による塹壕戦をもう一度繰り返す思想しか持てなかった。

 そしてフランスは巨額な軍事予算を、直接ドイツに接する国境に膨大な長さの要塞郡を建設。マジノラインと呼ばれるこの防御要塞を持ってすればドイツ軍が再来した場合にも完璧に防御出来ると踏んでいた。しかしその反動は、今後の戦闘の主力となるべき航空戦力の停滞を招く事になるのは当然の事。

 実際、この当時の航空機新技術の実用化スピードは速く、イギリスやアメリカが限られた予算の中でより優れた軍用機を目指して切磋琢磨していたのと違って、フランスがWWⅡまでに開発設計した軍用機は、何れもが部隊配備の時点では一世代前の機種がほとんどで、ドイツが1935年に再軍備宣言してからもまだマジノライン神話を所持し続けている。1937年になると有能な航空将官たちがあわてて「空軍近代化」を計画するも、近代化軍用機がすぐに量産出来る訳も無く、アメリカから極秘で輸入手続きするのがやっとの状態であった。

 そして1939年にとうとうドイツ軍がポーランドへ侵攻しWWⅡが勃発。この時点で主力戦闘機はやっと500機ほど揃ったモランソルニエMS.406。そしてアメリカから購入したカーチス・ホーク75(P-36ホークの輸出型)が約170機、まだまだ完成した型式と言い難いブロック151/152が約120機。レーサー用から急遽軍用化したコードロンC.174が10機以下。双発長距離戦闘機として配備されていたポテ63シリーズが約300機。フランス戦闘機最強と期待されているドボジアンD.520はまだ開発途中。

 1940年1月にとうとう、ドイツ軍はフランスへ向けて侵攻開始。さあ、巨額な予算を投じて建設したマジノラインでドイツ軍を食い止める事が出来るか!
 ドイツは、マジノラインへ向けて攻めては来ずに、オランダ・ベルギーを蹂躙しながら鮮やかな電撃戦を展開して北フランスから侵入。あっという間に、パリを占領してしまったとさ。

 その間、フランス空軍はどうしていたのか?実は、フランス戦闘機部隊はうまく会敵するとドイツ空軍相手にかなり善戦しています。しかし、イギリスの陸空軍の派遣部隊も応援に来ていながら、戦力の小出しや指揮系統の混乱で、陸上での戦いはドイツ軍の機動力ある部隊に追い回される一方で、前線基地は後退繰り返しでした。フランス空軍部隊がドイツ爆撃機迎撃に出動して基地へ戻ってくると滑走路は既にドイツに占領されていたりしました。5月28日にはダンケルクへ追い詰められたフランス・イギリス両主力軍はイギリス本土へ撤退。6月14日にはパリ陥落。6月21日にドイツ傀儡政権となるフィリップ・ペタンを首班をする新政府がドイツに休戦申し込んで独仏休戦協定が締結される(事実上フランスの敗戦)。
 フランス新政府(ヴィシー政権)は、南フランスの領有をドイツから認められ枢軸軍の仲間入りするハメになりました。

 なぜ、わざわざこのフランスの情勢を書いたかというと、この先のフランス人パイロット達の物語や、当時のフランス植民地の動きが面白いんですよね。あるものはヴィシー政権に忠誠を誓ってイギリス空軍相手に果敢に戦闘したり、あるものは、イギリスへ渡って自由フランス空軍に所属、あるものはソ連で、ノルマンディー・ニエメンのメンバーへ。
 ということでこの続きの物語はまた次の機会で。

 

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 1930年代にアメリカ海軍で運用された硬式飛行船の2隻。第一次世界大戦から偵察や爆撃に使用された飛行船は航続力が高く哨戒任務や稀に爆撃任務に各国で使われていました。しかし1930年代ともなると、戦闘機の能力が真価して来て、哨戒任務で飛行船を飛ばすには危ない状況でした。飛行船に護衛戦闘機をエスコートさせたいが、如何せん戦闘機の航続力は飛行船と同行させようにも全く足りません。そこで考え出されたのが、パラサイトファイターという方式。飛行船に戦闘機を搭載して必要な時だけ飛行船から発進させるという仕組み。

 1931年にアメリカ海軍が、世界初の実用パラサイトファイター母艦としてアクロン号を就航開始。建造会社はグッドイヤー社で全長240m。巡航速度90km/hながら胴体格納庫内に戦闘機5機(内、1機は未組立て)を搭載していました。搭載されるパラサイトファイター機はカーチスF9Cスパローホークという単座の複葉固定脚の戦闘機。当時としてはオーソドックスな機体ながら、コクピット前方上面に大きなフックが付いていて、アクロンの腹部から出し入れ出来るブランコと呼ばれる係留装置に引っ掛けるというアクロバチックな着艦方法が出来る機種。

 なんとも危なかしい方法ながら、アクロンからの離着艦はたいした事故も無く運用され、同型飛行船としてメイコン号も1933年に完成する目処が立っていた。実際、この頃は戦争なんて起きてないので、もっぱらデモンストレーション的な哨戒任務のみ。
 何度か悪天候時に飛行船自体の事故があったものの、1933年にメイコンも竣工し2隻の飛行艇母艦が揃い踏みしたが、その矢先の1933年4月4日、アクロン号が訓練中のニューイングランド州沖合いで突風に巻き込まれて墜落。搭乗員73名中の生存者がたったの3名だけという大事故を起こした。

 残されたメイコン号は、悪天候化での飛行対策改良も行なわれ、太平洋上でハワイから帰国中の重巡洋艦ヒューストンに乗っているルーズベルト大統領へ本国から運んできた新聞を届けたりのデモンストレーションを行なったりしていた。
 しかし、1935年2月12日にカルフォニア沖で嵐に遭遇し、墜落はしなかったが尾翼を損傷しガス洩れが発生。直ちにバラストの即時で大量投棄が命じられたが、制御が失われ後部が下がった姿勢になって実用高度を超えて上昇してしまい、大量のヘリウムが排出されて浮力が消滅。そのまま全体の浮力を失なってゆっくりと海面に墜落して最後には沈没してしまった。
 このアクロン号のメイコン号と事故により、以後、硬式飛行船の建造は行われることは無くなした。もちろん、パラサイトファイターのカーチスF9Cスパローホークも6機の製造のみで生産をストップ。
 2006年には、メイコン号沈没付近の海底調査が行なわれ、搭載されていたカーチスF9Cスパローホークの着艦用フックの部分などが発見されている。
 尚、アメリカはWWⅡ終戦後に、B-36ピースメーカージェット爆撃機を母艦に、GRF-84Fサンダーストリークをパラサイトフィイターとしてもう一度実用化している。
 
 
 

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