1940年3月6日に停戦となった冬戦争。しかしフィンランドはソ連軍の侵攻作戦を排除し独立を維持出来たものの、同月13日のモスクワ講和条約により、カレリア地方などソ連国境沿いの豊かな地を失った結果となり、領土を削られた恨みは晴れるものでは無かった。しかしフィンランドを取り巻く当時の状況は、傍観するしか出来なかかったイギリス・フランス、義勇兵を送り出したものの中立を維持し続けたスウェーデンや、イギリスからの救援部隊の通過を拒んだノルウェー、ソ連に組み込まれたバルト三国であり、しかもイギリス・フランスは今やドイツ相手に本格的な戦闘をしておりアテに出来ない状態であった。
こうしてドイツと密約に至る事となり、タテマエはノルウェーへの侵攻を行なうドイツ軍の国内駐留を認めるというものであったが、実際には、ソ連に対するドイツ軍の侵攻作戦(バルバロッサ作戦)に乗じてフィンランド軍も領土奪還を図るという軍事提携であった。ドイツ軍のバルバロッサ作戦(1941年6月22日)が始まると、フィンランドは当初は中立を宣言しながらも、同月26日にソ連へ宣戦布告してドイツ北方軍とともにカレリア地方へ攻撃をしかけてスターリングラードへ向けて進撃し1944年9月19日まで続けられる「継続戦争(Jatkosota)」が開始された。
冬戦争とうって変わって、枢軸軍の立場となったフィンランドは、ドイツ軍から兵器の供給を受け果敢にソ連軍と戦闘するがスターリングラードの戦い以降ドイツ軍が東部戦線で敗れるとソ連軍の大反抗が始まり、疲弊しきってしまったフィンランドは1944年9月19日にソ連から持ちかけられた講和を受け停戦となった。
フィンランド軍の流れは以上のような感じで結局はソ連の物量作戦に屈服してしまうのであるが、ことフィンランド空軍戦闘機部隊となると、序戦はバッファローで善戦し、ドイツから供給されたメッサーシュミットBf109Gが配備されるとその戦闘能力は強力なものとなり、ソ連軍Yak1/7/9/3シリーズ、LaGG-3、La-5などを相手に数多くのエースを輩出する大活躍を見せた。エイノ・イルマリ・ユーティライネン(94機)、ハンス・ウィンド(75機)、エイノ・ルッカーネン(56機)がエーストップ3である。
継続戦争が終結後、1944年9月~1945年4月の約半年間、フィンランドは、協定条件としてソ連から要求された「ドイツ軍の国内排除」のために、ラップランド戦争と呼ばれるドイツ軍を相手にした戦闘を行なっている。フィンランド国内のラップランド地方から組織的に撤退していくドイツ軍と戦闘となったもので、ここではBF109同士の空戦も行なわれているが、フィンランド爆撃隊がドイツ軍の組織的な対空砲火に大打撃を受け、それ以降、大規模な航空戦は発生しなかった。
尚、冬戦争以来、フィンランド空軍の国籍マークは「青い鍵十字」を使用していた。この青い鍵十字は、冬戦争勃発時に義勇軍として参加したカール・ローゼン卿が持ち込んだDC-2改造爆撃機に描かれていたのがきかっけで、ローゼン家で代々伝わっているマークだった。しかし、ナチスドイツを打ち倒した連合軍は、敗戦国となったフィンランド空軍に対して、ナチスをイメージするという理由で、青い鍵十字マークの使用を禁止して、以降フィンランド空軍は白地に青いラウンデルマークを使用するようになった。
こうしてドイツと密約に至る事となり、タテマエはノルウェーへの侵攻を行なうドイツ軍の国内駐留を認めるというものであったが、実際には、ソ連に対するドイツ軍の侵攻作戦(バルバロッサ作戦)に乗じてフィンランド軍も領土奪還を図るという軍事提携であった。ドイツ軍のバルバロッサ作戦(1941年6月22日)が始まると、フィンランドは当初は中立を宣言しながらも、同月26日にソ連へ宣戦布告してドイツ北方軍とともにカレリア地方へ攻撃をしかけてスターリングラードへ向けて進撃し1944年9月19日まで続けられる「継続戦争(Jatkosota)」が開始された。
冬戦争とうって変わって、枢軸軍の立場となったフィンランドは、ドイツ軍から兵器の供給を受け果敢にソ連軍と戦闘するがスターリングラードの戦い以降ドイツ軍が東部戦線で敗れるとソ連軍の大反抗が始まり、疲弊しきってしまったフィンランドは1944年9月19日にソ連から持ちかけられた講和を受け停戦となった。
フィンランド軍の流れは以上のような感じで結局はソ連の物量作戦に屈服してしまうのであるが、ことフィンランド空軍戦闘機部隊となると、序戦はバッファローで善戦し、ドイツから供給されたメッサーシュミットBf109Gが配備されるとその戦闘能力は強力なものとなり、ソ連軍Yak1/7/9/3シリーズ、LaGG-3、La-5などを相手に数多くのエースを輩出する大活躍を見せた。エイノ・イルマリ・ユーティライネン(94機)、ハンス・ウィンド(75機)、エイノ・ルッカーネン(56機)がエーストップ3である。
継続戦争が終結後、1944年9月~1945年4月の約半年間、フィンランドは、協定条件としてソ連から要求された「ドイツ軍の国内排除」のために、ラップランド戦争と呼ばれるドイツ軍を相手にした戦闘を行なっている。フィンランド国内のラップランド地方から組織的に撤退していくドイツ軍と戦闘となったもので、ここではBF109同士の空戦も行なわれているが、フィンランド爆撃隊がドイツ軍の組織的な対空砲火に大打撃を受け、それ以降、大規模な航空戦は発生しなかった。
尚、冬戦争以来、フィンランド空軍の国籍マークは「青い鍵十字」を使用していた。この青い鍵十字は、冬戦争勃発時に義勇軍として参加したカール・ローゼン卿が持ち込んだDC-2改造爆撃機に描かれていたのがきかっけで、ローゼン家で代々伝わっているマークだった。しかし、ナチスドイツを打ち倒した連合軍は、敗戦国となったフィンランド空軍に対して、ナチスをイメージするという理由で、青い鍵十字マークの使用を禁止して、以降フィンランド空軍は白地に青いラウンデルマークを使用するようになった。
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第二次世界大戦当時にフィンランドが戦闘した3つの戦争、その一つ目が冬戦争です。1939年11月30日~1940年3月6日の約4ヶ月間に、スターリン政権下のソ連相手に行なわれた戦争です。
1939年8月にソ連はドイツと独ソ不可侵条約を結びます。西側諸国ならびに日本も驚愕させられたこの協定の根本は、ドイツのポーランド侵攻をソ連が黙認し、ポーランド東側を見返りとしてソ連が領するという軍事協定ですが、その付随事項に、「バルト諸国」に対してはソ連が軍事摂取するという事項も含まれていました。
独ソ不可侵条約締結後にポーランド西側へ侵攻したドイツ。そしてソ連はポーランド東側を占領。同時にバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)と共に、フィンランドにもカレリア地方及びバルト海沿岸、フィンランド湾の島々の明け渡しを恫喝。バルト三国は当初よりソ連の恫喝に屈指してソ連に組み込まれたが、フィンランドは共産主義の脅威に屈せず、ここに冬戦争が勃発。強大な国土を持つソ連に人口約370万のファインランドが、名将マンネルヘイム元帥率いる国防軍として粘り強い戦いを展開しました。しかしあまりにも違い過ぎる国力でソ連の物量作戦に勝てず、4ヵ月後の講和条約により停戦。フィンランドはカレリア地峡、ラドガカレリア地域、ハンコ半島、スールサーリを含むフィンランド湾諸島の割譲および貸与を余儀無くされましたが、局地的な戦闘そのものはフィンラドが優勢でした。この4ヶ月間、ソ連以外のヨーロッパ諸国は連合軍対枢軸軍による「まやかし戦争」中であり、連合軍側、及び中立国からの義勇兵参加も数少ないながらありました。フィンランドはこの冬戦争での立場は決して連合軍ではありませんが、連合軍の後押しを受けて大国ソ連に立ち向かうという構図でした。
全体の説明が長くなってしまった(-_-;)
この冬戦争で、奮戦したのは地上軍だけではありません。フィンランド空軍が開戦時に所有してていた戦闘機は、オランダから購入・ライセンス生産したフォッカーDⅩⅩⅠが36機、イギリス製のブリストル・ブルドッグが10機のみ。その後、イタリアからフィアットG.50が1940年12月、イギリスより翌月にブリストル・グラジェーター、続けてフランス製モランソルニエMs.406が50機、そして3月にはアメリカより待望のブリュースターB239(バッファロー)が1940年3月に届いただけという、何れの機種も満足出来る機数がなく、オマケに機種的にどれも本国では二線級となった旧式戦闘機で、決してソ連相手に満足に戦える状況ではありませんでした。
舐めてかかっていたソ連機は卓越した腕を持ったフィンランド戦闘機に翻弄されます。初期の頃はフォッカーDⅩⅩⅠによってSBやDB-2爆撃機がバタバタと落とされ、中盤以降はフィアットG.50、モランソルニエMC.406も数に加わりI-153やI-16を撃墜してゆきます。ブリュースターB-239が登場する頃には続々とファインランド空軍エースが生まれました。冬戦争が終結した1940年3月6日の時点でフィンランド戦闘機が撃墜したソ連軍機は521機だったと記録されている。そして、1年3ヵ月後に「継続戦争」で再びソ連との戦争へ突入してゆきます。
1939年8月にソ連はドイツと独ソ不可侵条約を結びます。西側諸国ならびに日本も驚愕させられたこの協定の根本は、ドイツのポーランド侵攻をソ連が黙認し、ポーランド東側を見返りとしてソ連が領するという軍事協定ですが、その付随事項に、「バルト諸国」に対してはソ連が軍事摂取するという事項も含まれていました。
独ソ不可侵条約締結後にポーランド西側へ侵攻したドイツ。そしてソ連はポーランド東側を占領。同時にバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)と共に、フィンランドにもカレリア地方及びバルト海沿岸、フィンランド湾の島々の明け渡しを恫喝。バルト三国は当初よりソ連の恫喝に屈指してソ連に組み込まれたが、フィンランドは共産主義の脅威に屈せず、ここに冬戦争が勃発。強大な国土を持つソ連に人口約370万のファインランドが、名将マンネルヘイム元帥率いる国防軍として粘り強い戦いを展開しました。しかしあまりにも違い過ぎる国力でソ連の物量作戦に勝てず、4ヵ月後の講和条約により停戦。フィンランドはカレリア地峡、ラドガカレリア地域、ハンコ半島、スールサーリを含むフィンランド湾諸島の割譲および貸与を余儀無くされましたが、局地的な戦闘そのものはフィンラドが優勢でした。この4ヶ月間、ソ連以外のヨーロッパ諸国は連合軍対枢軸軍による「まやかし戦争」中であり、連合軍側、及び中立国からの義勇兵参加も数少ないながらありました。フィンランドはこの冬戦争での立場は決して連合軍ではありませんが、連合軍の後押しを受けて大国ソ連に立ち向かうという構図でした。
全体の説明が長くなってしまった(-_-;)
この冬戦争で、奮戦したのは地上軍だけではありません。フィンランド空軍が開戦時に所有してていた戦闘機は、オランダから購入・ライセンス生産したフォッカーDⅩⅩⅠが36機、イギリス製のブリストル・ブルドッグが10機のみ。その後、イタリアからフィアットG.50が1940年12月、イギリスより翌月にブリストル・グラジェーター、続けてフランス製モランソルニエMs.406が50機、そして3月にはアメリカより待望のブリュースターB239(バッファロー)が1940年3月に届いただけという、何れの機種も満足出来る機数がなく、オマケに機種的にどれも本国では二線級となった旧式戦闘機で、決してソ連相手に満足に戦える状況ではありませんでした。
舐めてかかっていたソ連機は卓越した腕を持ったフィンランド戦闘機に翻弄されます。初期の頃はフォッカーDⅩⅩⅠによってSBやDB-2爆撃機がバタバタと落とされ、中盤以降はフィアットG.50、モランソルニエMC.406も数に加わりI-153やI-16を撃墜してゆきます。ブリュースターB-239が登場する頃には続々とファインランド空軍エースが生まれました。冬戦争が終結した1940年3月6日の時点でフィンランド戦闘機が撃墜したソ連軍機は521機だったと記録されている。そして、1年3ヵ月後に「継続戦争」で再びソ連との戦争へ突入してゆきます。
とうとう、軍用機(WWⅡドイツ空軍)図鑑 の作成に入りました。図鑑登録に利用しているズカンダというサイトは、図鑑登録の順番があとで変更できないので、現在、実験機・軍用グライダーのみ登録して、あとの任務機は続々とマイドキュメントにストック中。
今回の図鑑は、「第二次世界大戦の期間中に試作機であろうと実機が存在して使用(テスト飛行含む)されていた機種」と前提しましたので、とにかく、その機種数の多い事、ややこしい事。
特に今まではあまり注目しなかったグライダー、ヘリコプター、練習機、輸送機、水上機など詳しく調べているとまだまだ知らなかった開発秘話やエピソードがたくさん出てきました。
例えば、開発された年代からすると非常に美しい流線型で素晴らしい空力性能を持っていると想像出来るドルニエDo26が、10機も生産されずに終わっている。不思議に思って性能緒元の数値を見てもこの手のサイズの飛行艇としては悪くはありません。これは後に、タンデム式に配置された後部エンジンの冷却不足が決定的な原因だとわかりました。そう言われてみれば画像で探しても見ても後部エンジンのラジエターがどこに配置されているのかわかりませんでした。また、戦前に量産された機体はそのほとんどの機種が練習機に転用されていますし、もちろんアラドAr96など優れた練習専用機も設計生産されており、WWⅡ開戦時にはすさまじい練習機保有数でありました。
ドイツ軍機を登録化するにあたり、まず当時のドイツ背景をまとめる事からはじめました。
第一次世界大戦で敗戦国となり軍隊を持つことをベルサイユ条約で禁止されていたドイツで、ナチス党がドイツの政権を奪取しヒトラーが首相となるのは1935年。そして直ぐにヒトラーによって「再軍備宣言(ベルサイユ条約破棄)」がなされます。ドイツ空軍は、第一次世界大戦でエースパイロットとして活躍した事もあるゲーリングに任されてこれも1935年の内に再建されます。慌てて再建したように見えますが、ルフトハンザ航空で民間機開発を隠れ蓑として開発されていた機種がいくつも存在してましたし、当時友好国であったソ連国内で着々と飛行テストを繰り返していました。空軍再建直後の1936年には、スペイン内乱に乗じて「コンドル軍団」として反政府側の義勇軍として参戦し、ちゃっかり自国製軍用機を初めとする兵器を実験し、パイロットに経験を積ませています。また、練習機を大量に生産して来るべき戦いにむけています。ヘルマン・ゲーリング、エアハルト・ミルヒ、エルンスト・ウーデットなどの空軍首脳陣たちの当初の戦略は的を得たものでありました。
そうして、1945年に第二次大戦敗戦国となり空軍が解体されるまで約10年間、その優れた技術と柔軟な発想で数々の軍用機を実戦投入し傑作機と評価される機種も多数存在、そのパイロット技能も世界一の水準であり続け、戦後にはドイツが生み出した数々の軍事技術が連合軍各国で研究継承されていく事になります。
今回のWWⅡドイツ空軍機図鑑については、ハウニブ系やベル、ヴェリルなどオカルト的なものはもちろんの事、惜しくもペーパープランだけに終わった機種も省いています。したがって、私の大好きな機種の一つ、Ta183フォッケバインも試作機完成前に工場が空襲されてしまったので、登録されません。
今回の図鑑は、「第二次世界大戦の期間中に試作機であろうと実機が存在して使用(テスト飛行含む)されていた機種」と前提しましたので、とにかく、その機種数の多い事、ややこしい事。
特に今まではあまり注目しなかったグライダー、ヘリコプター、練習機、輸送機、水上機など詳しく調べているとまだまだ知らなかった開発秘話やエピソードがたくさん出てきました。
例えば、開発された年代からすると非常に美しい流線型で素晴らしい空力性能を持っていると想像出来るドルニエDo26が、10機も生産されずに終わっている。不思議に思って性能緒元の数値を見てもこの手のサイズの飛行艇としては悪くはありません。これは後に、タンデム式に配置された後部エンジンの冷却不足が決定的な原因だとわかりました。そう言われてみれば画像で探しても見ても後部エンジンのラジエターがどこに配置されているのかわかりませんでした。また、戦前に量産された機体はそのほとんどの機種が練習機に転用されていますし、もちろんアラドAr96など優れた練習専用機も設計生産されており、WWⅡ開戦時にはすさまじい練習機保有数でありました。
ドイツ軍機を登録化するにあたり、まず当時のドイツ背景をまとめる事からはじめました。
第一次世界大戦で敗戦国となり軍隊を持つことをベルサイユ条約で禁止されていたドイツで、ナチス党がドイツの政権を奪取しヒトラーが首相となるのは1935年。そして直ぐにヒトラーによって「再軍備宣言(ベルサイユ条約破棄)」がなされます。ドイツ空軍は、第一次世界大戦でエースパイロットとして活躍した事もあるゲーリングに任されてこれも1935年の内に再建されます。慌てて再建したように見えますが、ルフトハンザ航空で民間機開発を隠れ蓑として開発されていた機種がいくつも存在してましたし、当時友好国であったソ連国内で着々と飛行テストを繰り返していました。空軍再建直後の1936年には、スペイン内乱に乗じて「コンドル軍団」として反政府側の義勇軍として参戦し、ちゃっかり自国製軍用機を初めとする兵器を実験し、パイロットに経験を積ませています。また、練習機を大量に生産して来るべき戦いにむけています。ヘルマン・ゲーリング、エアハルト・ミルヒ、エルンスト・ウーデットなどの空軍首脳陣たちの当初の戦略は的を得たものでありました。
そうして、1945年に第二次大戦敗戦国となり空軍が解体されるまで約10年間、その優れた技術と柔軟な発想で数々の軍用機を実戦投入し傑作機と評価される機種も多数存在、そのパイロット技能も世界一の水準であり続け、戦後にはドイツが生み出した数々の軍事技術が連合軍各国で研究継承されていく事になります。
今回のWWⅡドイツ空軍機図鑑については、ハウニブ系やベル、ヴェリルなどオカルト的なものはもちろんの事、惜しくもペーパープランだけに終わった機種も省いています。したがって、私の大好きな機種の一つ、Ta183フォッケバインも試作機完成前に工場が空襲されてしまったので、登録されません。
スオムス空軍のエースパイロットで、第501統合戦闘航空団所属。フルネームはエイラ・イルマタル・ユーティライネン。ストライカーユニットはBf109G-2またはK-4を使用し、固有魔法は未来予知。敵の攻撃をその予知能力ですべて回避出来る。あ!これはアニメ、ストライク・ウィッチーズのキャラ、「エイラ」でした。
ストライク・ウィッチーズ、エイラのモデルとなったのは、フィンランド空軍のトップエースであるエイノ・イルマル・ユーティライネン。
彼は冬戦争、継続戦争を通じて公式撃墜記録96機。しかもその間に撃墜される事が無かったのはもちろんの事、乗機が敵の銃撃に当たる事が無かったのは驚きである。
1914年にフィンランド東部に生まれた彼は1939年3月からフォッカーDⅩⅩⅠ戦闘機を配備する飛行第24戦隊第3中隊に所属し、同年11月30日に冬戦争が勃発。翌月19日にツポレフSB-2を撃したのが初撃墜でその数日後にはポリカルポフI-16を撃墜。115回の出撃で2機撃墜で彼の冬戦争は幕を閉じた。休戦期の1941年3月に最終任官となる准尉に昇進。
1941年6月25日に継続戦争が開戦し、ブリュースターBー239が配備された飛行第24戦隊第3中隊に再び所属。一日でI-153戦闘機を3機したりして翌年の4月26日に通算20機を達成しマンネルヘイム十字章を受勲を受け、同日に三度目の一日3機撃墜も記録している。彼がもっぱら乗機とした「BW-364号機オレンジの4番」で28機を撃墜しており垂直尾翼には撃墜数マークが描かれてた。1943年2月に飛行第34戦隊に召集される迄に181回の出撃で通算36機を撃墜し、エース争い2位のオリヴァ・トゥミネン23機撃墜を軽く追い抜いてトップに立っていた。
選抜きのエース達を招集し、最新鋭戦闘機メッサーショミットBf109G-2が配備された飛行第34戦隊に転属すると、彼の撃墜記録は更なる加速を見せ、マンネルヘイム十字章を受勲(ダブル受賞は軍人ではたった4人)を受けたのを初め、1回の出撃でYak-9を含む敵6機撃墜の記録も果たしている。1944年から始まったソ連軍大攻勢の間にも、多数の敵機相手に撃墜記録を増やしており、継続戦争が終結した時点で出撃437回で94機の通算撃墜で、トップエースとして常に前線で戦い続けた。
ストライク・ウィッチーズ、エイラのモデルとなったのは、フィンランド空軍のトップエースであるエイノ・イルマル・ユーティライネン。
彼は冬戦争、継続戦争を通じて公式撃墜記録96機。しかもその間に撃墜される事が無かったのはもちろんの事、乗機が敵の銃撃に当たる事が無かったのは驚きである。
1914年にフィンランド東部に生まれた彼は1939年3月からフォッカーDⅩⅩⅠ戦闘機を配備する飛行第24戦隊第3中隊に所属し、同年11月30日に冬戦争が勃発。翌月19日にツポレフSB-2を撃したのが初撃墜でその数日後にはポリカルポフI-16を撃墜。115回の出撃で2機撃墜で彼の冬戦争は幕を閉じた。休戦期の1941年3月に最終任官となる准尉に昇進。
1941年6月25日に継続戦争が開戦し、ブリュースターBー239が配備された飛行第24戦隊第3中隊に再び所属。一日でI-153戦闘機を3機したりして翌年の4月26日に通算20機を達成しマンネルヘイム十字章を受勲を受け、同日に三度目の一日3機撃墜も記録している。彼がもっぱら乗機とした「BW-364号機オレンジの4番」で28機を撃墜しており垂直尾翼には撃墜数マークが描かれてた。1943年2月に飛行第34戦隊に召集される迄に181回の出撃で通算36機を撃墜し、エース争い2位のオリヴァ・トゥミネン23機撃墜を軽く追い抜いてトップに立っていた。
選抜きのエース達を招集し、最新鋭戦闘機メッサーショミットBf109G-2が配備された飛行第34戦隊に転属すると、彼の撃墜記録は更なる加速を見せ、マンネルヘイム十字章を受勲(ダブル受賞は軍人ではたった4人)を受けたのを初め、1回の出撃でYak-9を含む敵6機撃墜の記録も果たしている。1944年から始まったソ連軍大攻勢の間にも、多数の敵機相手に撃墜記録を増やしており、継続戦争が終結した時点で出撃437回で94機の通算撃墜で、トップエースとして常に前線で戦い続けた。
ハインケルのHe111、ユンカースのJu88、ドルニエのDo17の3機種は、優れた四発重爆撃機を持たなかったドイツ空軍にとって、主力となった双発爆撃機トリオであった。爆撃任務以外の用途タイプも派生型として多く開発され、偵察哨戒機、輸送機の他に、夜間戦闘機、雷撃機、対戦車攻撃にまで使用されています。
3機種とも、第一次世界大戦の敗戦によるドイツ航空作戦禁止制限によって、ルフトハンザ航空の旅客機開発を隠れ蓑にして設計が開始された機体で、高速を活かした爆撃をコンセプトに、双発ながら小型軽量な設計である。また搭乗員配置は胴体側部や尾部には配置せず一貫して機首に集中させているのがドイツ爆撃機の特徴です。
結果的に開発時点での速度重視コンセプトは、戦闘機の進化も著しく高速爆撃機の優位性はすぐに失ってしまう事になります。
バトルオブブリテンでは味方戦闘機の護衛を満足に得られず損害を多く出し、東部戦線では航続距離や爆弾搭載量に悩まされ、広大な戦域をカバー出来ずに苦戦をし続けながらも、後継機種の量産化がうまく機能せずに終戦まで酷使された機体達でありました。Ju88なんて本来は爆弾搭載を少なくして高速を活かしたピンポイント攻撃(戦術爆撃)に使われるべき機体設計であったのにも関わらず戦略爆撃任務に出撃し損失を増やしていきました。
上図に3機種の爆撃任務に使用された主要タイプの性能諸元を表しました。それぞれエンジン装備などサブタイプが多いのだが、その生産量から見て主力となったタイプを左から順に表記してみました。表を見て判るとおり、Ju88がもっとも優秀で、やはり総生産機数も飛びぬけています。 He111は1935年初飛行し総合力でJu88に劣りながらも、航続能力が高い為、バトルオブブリテンで最も多く出撃したんですね。
Ju88は1936年末に初飛行し当初よりマルチ双発機として開発されたため急降下爆撃もこなす能力を持っていました。
Do17は初飛行が1934年に初飛行と最も早く、双発爆撃機としてはエンジンには非力さを感じます。スペイン内乱では活躍したが大戦突入時にはバージョンUP型のDo217が部隊配備準備中でありました。しかしこのDo217は胴体最後尾に装備したエアブレーキに不都合が生じて実際の配備は遅れる事になります。
とにかく、他に頼る機種がなかった第二次世界大戦前半は、この3機種を大量に生産して数でカバーしようとした見たいです。バトルオブブリテンではJu87スツーカーと合わせた4機種が大量に損失していますが、ノルマンディに上陸されてからも余剰爆撃機としてミステルの母艦に改造されたり、V1発射母艦としても使用されています。
ドイツには中期以降、他にも双発爆撃機があったじゃないか! そうです、Ju88はJu188、Ju288とバージョンUPして行きます。Do17もDo217、Do317とバージョンUPしていきました。でも、英米の四発重爆撃機に戦略爆撃を受けだしたドイツ航空機産業はそのバージョンUP版を満足に量産化出来ず、戦局的にも双発爆撃機を有効に作戦投入出来るものでは無くなって来ています。
しかしHe111を開発したハインケル社は、バージョンUP機種を作らなかった。「なぜ?」って、四発重爆撃機のHe177を必死になって実用化させようと頑張っていたらしいです。らしいと言うのは、その合間にHe176というロケット機を作ったり、He219ウーフという量産に向かない夜間戦闘機を作ってドイツ航空省から反感をくらってましたから。
3機種とも、第一次世界大戦の敗戦によるドイツ航空作戦禁止制限によって、ルフトハンザ航空の旅客機開発を隠れ蓑にして設計が開始された機体で、高速を活かした爆撃をコンセプトに、双発ながら小型軽量な設計である。また搭乗員配置は胴体側部や尾部には配置せず一貫して機首に集中させているのがドイツ爆撃機の特徴です。
結果的に開発時点での速度重視コンセプトは、戦闘機の進化も著しく高速爆撃機の優位性はすぐに失ってしまう事になります。
バトルオブブリテンでは味方戦闘機の護衛を満足に得られず損害を多く出し、東部戦線では航続距離や爆弾搭載量に悩まされ、広大な戦域をカバー出来ずに苦戦をし続けながらも、後継機種の量産化がうまく機能せずに終戦まで酷使された機体達でありました。Ju88なんて本来は爆弾搭載を少なくして高速を活かしたピンポイント攻撃(戦術爆撃)に使われるべき機体設計であったのにも関わらず戦略爆撃任務に出撃し損失を増やしていきました。
上図に3機種の爆撃任務に使用された主要タイプの性能諸元を表しました。それぞれエンジン装備などサブタイプが多いのだが、その生産量から見て主力となったタイプを左から順に表記してみました。表を見て判るとおり、Ju88がもっとも優秀で、やはり総生産機数も飛びぬけています。 He111は1935年初飛行し総合力でJu88に劣りながらも、航続能力が高い為、バトルオブブリテンで最も多く出撃したんですね。
Ju88は1936年末に初飛行し当初よりマルチ双発機として開発されたため急降下爆撃もこなす能力を持っていました。
Do17は初飛行が1934年に初飛行と最も早く、双発爆撃機としてはエンジンには非力さを感じます。スペイン内乱では活躍したが大戦突入時にはバージョンUP型のDo217が部隊配備準備中でありました。しかしこのDo217は胴体最後尾に装備したエアブレーキに不都合が生じて実際の配備は遅れる事になります。
とにかく、他に頼る機種がなかった第二次世界大戦前半は、この3機種を大量に生産して数でカバーしようとした見たいです。バトルオブブリテンではJu87スツーカーと合わせた4機種が大量に損失していますが、ノルマンディに上陸されてからも余剰爆撃機としてミステルの母艦に改造されたり、V1発射母艦としても使用されています。
ドイツには中期以降、他にも双発爆撃機があったじゃないか! そうです、Ju88はJu188、Ju288とバージョンUPして行きます。Do17もDo217、Do317とバージョンUPしていきました。でも、英米の四発重爆撃機に戦略爆撃を受けだしたドイツ航空機産業はそのバージョンUP版を満足に量産化出来ず、戦局的にも双発爆撃機を有効に作戦投入出来るものでは無くなって来ています。
しかしHe111を開発したハインケル社は、バージョンUP機種を作らなかった。「なぜ?」って、四発重爆撃機のHe177を必死になって実用化させようと頑張っていたらしいです。らしいと言うのは、その合間にHe176というロケット機を作ったり、He219ウーフという量産に向かない夜間戦闘機を作ってドイツ航空省から反感をくらってましたから。
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