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 カーチス社(当時の正式社名はカーチス-ライト・カンパニー)は、P-36ホークという空冷エンジン戦闘機を製作。、1934年にセバスキー社のP-35と採用争いして敗れましたが、結局はその米国陸軍航空隊にて補欠採用してもらった機体があります。このP-36ホーク、R-1830ツインワプスエンジン(1,184馬力)を搭載し、フランスやフィンランド、英国にも輸出された機種で、当時としては低空性能に優れヨーロッパ戦線序戦にドイツ軍機相手に奮戦しました。その後ビルマ戦線にて日本陸軍機(主に隼かな?)に敵わずに退役した機体です。

 カーチス社は1937年にこのP-36の大改造を行います。ボディを75cmほど延長し水冷12気筒エンジンであるアリソンV-1710系に換装し、ラジエター吸入口をエンジンのすぐ下に配置させたP-40ウォーホークを完成させたのです。

 このP-40ウォーホークは、速度はP-36ホークよりも70km/hほど優速ながら平凡な機体でありましたが、頑丈な機体で運用性にすぐれ急降下性能が良い為、米陸軍だけで無く、主に戦闘爆撃機として英国、ソ連、中華民国など様々な連合軍で使用されるベストセラー機となり、各派生型を合わせて総生産13,700機。最終派生のP-40Nに至る1944年12月まで生産を続けた機種となりました。


 カーチス社は、このベストセラーとなったP-40ウォーホークがかなりお気に入りだったのです。しかも元はP-36ホークの機体をベースにエンジンを載せ替えただけの手法ですし、一から設計する手間と時間も省けちゃいましたから。
 そして、カーチス社はこのP-40ウォーホークからエンジン換装による新機種開発を続けてドロ沼にハマっていきます。他社の機種でもやっぱりベストセラー機が出来ちゃうとどうしてもその機体を再改造して「もっと良い機種を」となりますが、カーチス社は延々とこのP-40ウォーホークの改造にのめり込みます。

 まずは、1939年から最高速度660km/hを目指したXP-46を開発開始。P-40ウォーホークをベースにして当時のアリソン系エンジンの最優秀なV-1710-39を搭載し、機首下のラジエターダクトをもっと小さくするという設計。しかしその原型機はP-40ウォーホークの性能を凌駕する事は出来ずに開発を断念。

 1940年にはXP-53としてP-40ウォーホークをベースに層流翼とコンチネンタル・モータース製IV液冷エンジンを採用した試作機を開発。しかしP-51Dマスタングで成功したロールスロイス製マリーンに変更するように陸軍から要求されて、マリーンエンジン搭載に再設計を行ないXP-60の名称を与えられます。

 マリーンエンジンに換装する事で生まれたXP-60ですが、そこからエンジン換装やプロペラ、ラジエター位置など関係者から散々弄くり回されて、試作機が5機しか生産されていないのにも関わらず、派生系が7種類も存在し、どんどんフォルムが変わったあげくに、どの派生型も役立たずで終わった可愛そうな機種となりました。

 下図にXP-60の6タイプのフォルムを載せました。
 XP-60が液冷マーリン28エンジンに3翔ペラでラジエターインテイクを改造。
 XP-60AでエンジンがアリソンV-1710-75に換装して排気タービンが付き、主翼付け根にはその排気タービンのインテイクが付きます。ペラも4翔となり、主脚カバーは省かれています。ここぐらいの派生は他機種でもよくある事です。しかしまだXP-60の派生は続きます。
 XP-60CではP&W R-2800-53の空冷2,000馬力エンジンで二重反転ペラになります。
 XP-60Dは、XP-60の試作機を使ってマーリンV-1650-3エンジンに換装しペラ4翔にします。元の原型に戻ったって感じです。
 XP-60Eは、アリソンエンジンを搭載していたXP-60Bを使って、エンジンを再び空冷のP&W R-2800-53に換装して4翔ペラにします。
 YP-60Eは、P&W R-2800-53をよりパワーのあるP&W R-2800-18に換装しキャノピーを水滴型にします。もう外観はP-40ウォーホークと言うよりもP-47サンダーボルトに近いですね。

 一時は量産発注された派生型もあるがキャンセルされたりして振り回されて、結局はどの派生型もボツ。いろいろエンジンを載せ替えましたが、どうも根本的な原因は層流翼の形や表面仕上げが悪かったらしいです。

 カーチス社って同じ時期に、SB2Cヘルダイバーの実用化で苦戦(尾翼の方向安定性能が悪い)してますし、その上、SO3CシーミューはそのSB2Cヘルダイバーから改造しています。また、XP-55アゼンダーというヘンテコ先尾翼機や、P-71という巨大戦闘機も忙しい最中に試作したりしています。そんなカーチス社の中でも、P-40ウォーホークとSB3Cヘルダイバーは超一流機ではなかったけど、苦労した分だけ米国の戦時下を支える事が出来た機種だった事は間違い無いです。
 そんなカーチス社は、戦後に紆余曲折を経て航空機メーカーを離れて機械や電子機器のメーカーとなっています。

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  Menphis Belle(メンフィス・ベル)の映画を見たでしょうか?私は昭和の時代に見た覚えがあったですが、YouTubeで無料で見れるのがあったので、再びじっくり見てしまいました。

 F-17フライングフォートレスのF-10型、シリアル41-24485機(メンフィスベル号)が、英国駐屯の米第8空軍で25回目のミッションを達成すれば搭乗員10人全員が帰国出来る規定になっていて、その25回目の出撃がストーリーのメインです。元ネタは実話で当時プロパガンダに使用されて有名になった機体なんです。ノーズアートは当時流行したカレンダーのマスコットガールであったペティガールズで、機種右側は赤い水着、左側は青い水着が描かれており、本機は現在でも「メンフィス・ベル・パビリオン」に展示されています

 映画では実際のB-17本物を2機使って撮影していて、「The Tuskegee Airmen」というWWⅡ映画に出てくるデタラメ機とは雲泥の差です。

 今回、無料のYouTubeで見れる動画は、Partが10個に分かれていて見づらいし、日本語訳は付いてません。しかも、Part1とPart2はどうやら削除されているようで見つかりませんでした。が、しかし、やっぱ良い映画は見ごたえがありますので、ミリタリー好きの方はいかがでしょうか?

 Memphis Belle (1990) Part 3  Memphis Belle (1990) Part 4

 Memphis Belle (1990) Part 5  Memphis Belle (1990) Part 6

 Memphis Belle (1990) Part 7  Memphis Belle (1990) Part 8

 Memphis Belle (1990) Part 9  Memphis Belle (1990) Part 10



Part5から、メンフィスベル機の最後の出撃が始まります。Part6から敵の迎撃を受け始めます。Part8あたりから目が離せない展開になってオススメです。

 英語版なので、ちょっと解説をPart8以降だけしましょう。

 Part8=副操縦士が後部機銃座に面白半分で交代してもらって、Bf109を撃墜したらそれが僚機のB-17にぶち当たったり、爆撃投下地点上空に到達するも雲にじゃまされて爆弾投下出来そうに無い状況で、「もうどこでも良いから爆弾落として帰投したいという葛藤」。運よく目的地上空で雲の切れ目が出て爆弾投下した後、ほっとしてるのもつかの間、腹部旋回銃座がBf109の機銃にぶち抜かれて機銃員が落下しそうになったり、そうこうしてるうちに胴体側面に攻撃を受けて機銃員1名が怪我をしたっていう場面です。

 Part9=今度は第4エンジンを銃撃されて火災が発生。第4エンジンの火災を消すために味方編隊を離れて、急降下を行ないます。結局4基エンジンのうち第1と第4エンジンは破壊されており、残り2基のエンジンで飛んで単機で基地へ帰る事になったメンフィスベル。少しでも機体を軽くするために機銃などは投下する羽目になります。基地上空にヨタヨタでたどり着こうという頃、今度は片側主脚が出ません。手動でレバーをクルクル回して脚を強制的に出すしかありません。

 Part10=ラストシーンです。手動で片側主脚を出そうと試みますが、あちこちにガタが来ていて飛行高度が下がってきます。さあ、脚を出すのが間に合うか。

 そういえば、昔、PCゲームで、このメンフィスベルを題材にしたフライトシュミレーションがありまして、海外版だったので難易度設定やキーコンフィグが判らず、離陸させる事も出来なかったのを思い出しました。

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 ドイツ海軍が建造しようとした航空母艦グラーフ・ツェッペリン。本艦は1938年に進水したが、ドイツ海軍の戦略構想が潜水艦による通商破壊作戦を優先する為にUボート建造に集中する事となり1940年に艤装工事が一旦中断されたり、建造再開するもバルジ装着の追加や搭載させる艦載機問題に手間取っている間に大型艦製造中止命令(1943年春)が出たため、工事は完全に中止となり未完成で終戦を迎えた艦である。

 艦載機の問題も、どの機種にするか等の選定以前から問題が出ていました。ドイツ空軍元帥のゲーリングが、「空を飛ぶ兵器は全部空軍管轄だ~」と吼えて断固反対するもんだから大騒動になったらしいです。

 で、今回のコラムは、仮説「グラーフ・ツェッペリンが完成していたら」っていう話を書こうと思います。仮説の前提は、1943年に建造中止とならず、逆に「重点生産兵器とされて急ぎ儀装して完成した」、「艦載機は当初予定していた機種を搭載出来た」の二点とした場合です。

 仮説で話を進めると、完成時期はいくら急いでも1943年の秋ですね。その頃のヨーロッパ戦況で言えば、イタリア半島に連合軍が上陸してイタリアが降伏しちゃうのが1943年9月。東部戦線ではドイツ機甲部隊がウクライナまでずるずる押し返されている頃ですね。ノルマンディ上陸はまだですね(1944年6月6日)。でも、もうこの頃のドイツでは米英爆撃機に空襲を受けだした頃だから、いよいよ戦争がやばくなって来ています。そこでグラーフ・ツェッペリンの出撃ですが、建造工事はバルト海沿いのキール軍港でしたから当然完成地もキールです。当時ならB-17フライングフォートレスなどの長距離大型爆撃機に空襲される位置にあるので慌てて出撃しないと行けない状況です。

 搭載した艦載機は、予定していた4機種を積みます。戦闘機は二機種。Bf109Tという機体が主力です。この戦闘機は傑作機メッサーシュミットBf109のE-4型を元にして艦上戦闘機に改造した機体です。カタパルトフックとアレスティング・フックを追加、主脚強化、主翼延長し翼端を折りたたみ式に改造してあって強そうやん。

 「あ~!でもダメです」、艦載機として致命的な欠陥がありました。左右の主脚間隔が狭くて空母甲板への着艦が極めて難しい。元々からBF109の弱点なんだから、なんで艦上戦闘機への改造でそれを直さないのしょう。

 では、もう一種の戦闘機にがんばってもらおう、Bv155ですね。メッサーシュミット社が当初開発した設計をブローム&フェス社が引き継いだもので、言わばグラーフ・ツェッペリンの為に設計した新機種です。

 「あ~!でのダメです」、ターボ過給機のトラブルで満足に飛行出来てません。Bf109Tなら発艦だけは出来る(着艦も10機のうち5機ぐらいは無事降りれるかな)から、まだBf109Tのほうがマシでした。

 仕方ないですから艦上爆撃機に期待しましょう。搭載機種はJu87D-4です。ベースは名機スツーカーだし、航続距離がが少し伸びて1,500km、魚雷攻撃も出来てバッチリだ。

 「あ~!でもダメです」、無武装で最高速度が410km/h、魚雷搭載したら300Km/h以下だ。第二次世界大戦当初だったらこの速度で良いんだろうけど、今時なら護衛戦闘機をたくさん付けなきゃ攻撃地点にたどり着けないやん。やっぱもうスツーカーは旧式化しちゃったんだなぁ。敵戦闘機はスピットファイアMkⅤやシーファイア。米軍にはP-38が居るし、P-51Dも実戦配備されて来てるって話じゃん。


 もう一機、雷撃専用の新型機があったなぁ。それはFi167。

 「あ~!でもダメです」、複葉機じゃん。しかも最大速度が無武装で325km/hって、1,000kgのドイツ魚雷積んだらどんだけ遅くなるねん。イギリス海軍でもこんな機体、この時期に新規採用しないぞ。

 「あ~あ」。仮説でグラーフ・ツェッペリンの大活躍の話を進めようとしましたが、やっぱり無理でした。なぜフォッケウルフFw190A系統を艦載機化しなかったんだろう?一番手っ取り早くまともな艦載機が出来そうで、空冷で整備もしやすいし、戦闘機だけでなく雷撃タイプも陸上型であったから無難にこなせそうなのなぁ。

 仮にMe262やTa152の艦載機バージョンが出来るまで出撃を待っていたらどうだったでしょう。

 「あ~!でもダメです」、1945年4月9日のキール軍港空爆でポケット戦艦アドミラル・シュアーとともに沈没ですね。

 やっぱ、航空母艦の有効運用って、ちょっと4・5年試行錯誤したぐらいではダメなのね。フランス・イタリア・ソビエトも有効利用出来ずにそろってこけたし。

 

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 1939年、ソビエト赤軍は主力戦闘機ポリカルポフI-16の後継機を求めて、新進気鋭の設計局も含めて設計競争を要求。たぶん独裁者スターリンの鶴の一声だったんだろうなぁ。という訳で、参加した(させられた?)のは、老舗のポリカルポフ設計局、ラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ設計局(長いので以降はラボーチキン設計局と呼ぶ)、ヤコブレフ設計局。
 後にポリカルポフ設計局から暖簾分けされたミヤコン・グレビッチ設計局(長いので以降はミグ設計局と呼ぶ)も加わっての設計コンテストの様になった。
 1939年といえばドイツ軍が電撃戦にてポーランドを占領した年。その時にまだI-16の後継機が決まってないのだから、かなり出遅れてるわな。まあそういう事で慌てて各設計局に指示した訳で、基本構想設計を「西ヨーロッパで実戦化されつつある液冷エンジンの高速単座戦闘機と同じようなやつ」という要求を掲示した。言い換えれば、ソビエトで名機スピットファイアやBf109を作れって言う事。
 まず設計提出してきたのはポリカルポフ設計局。1937年から構想していたとされる機体で、I-17という機体名を付けて原型機製作に入ったが、諸々のトラブルが多発した為に開発は即中止。その後も起死回生でI-17を空冷エンジン(シュベツォフ)に換装したI-18を開発したが、これまたテスト飛行中に墜落し、あえなくボツ。このボツを気にどんどんポリカルポフ設計局は没落して行くんだなぁ。
 次に設計提出があったのはラボーチキン設計局。LaGG-1と名づけられたその機体は、クリモフM-105液冷エンジン搭載。液冷エンジンを搭載した割には機首下の潤滑油空気取り入れ口、及び胴体下のラジエターの関係からかモサ~としていた。まあ見た目はモサ~としてても良いけど、木製ボディは強度を上げるためにプラスチックを溶かして塗りこんでありボディが重い、当然エンジン負荷が大きくて問題発生。直ぐに過給器付きのクリモフM-105Pシーリーズにエンジン換装してLaGG-3と命名。ソビエト赤軍当局としても、いつ世界大戦に巻き込まれるかわからない時期に来ているのは判っている。しかも I-16ではBf109E型に全く敵わなかったのはスペイン内戦ではっきりと認識していた。って訳でこのLaGG-3の量産化を決定。1944年まで総計6500機製造される事となるのだが、操縦安定性が悪くパイロットには不評であった。

 ヤコブレフ設計局は計画提出が少し遅れていたが中々良さげ設計を提出。原型機は翌年の1940年1月となってしまった機体は、Yak-1と命名。このYak-1が操縦も素直で特に低空域性能はすこぶる良い。という事でI-16の本命に躍り出る事になって、速攻で重点生産機種に指定。ということで、このYak-1は総生産8721機作られる事になる。

 少し遅れて参加したミグ設計局は、LaGG-3の量産化を見て一工夫して来た。高高度迎撃機として設計を仕上げたのである。原型機は1944年4月に出来てMiG-1と命名。見た目は一番カッコイイ。試験段階で時速648kmをたたき出したが、あらあら、運動能力がかなり不足。高高度迎撃機だから少々の運動不足は目をつぶるにしても、失速速度も高いので、着陸が危なっかしい。まあ、でもとりあえず100機量産して戦闘機の数を増やす事にした。そして直ぐに改良版の開発を命じられてMiG-3が同年10月に完成。胴体延長やラジエター位置変更など施されたがまだ着陸速度が早くて不正地な飛行場では使えないシロモノ。エンジンは液冷のミクリーンAM35A(1350馬力)で上昇力はかなり良いんだがなぁ。でももうこの時期にはドイツ・イタリアは、イギリス・フランスと全面戦争に入っている頃なので、ソ連としても悠長に改良してる暇は無い。とりあえずMiG-3も量産だって事で、結局総生産3000機も作った。このMiG-3って、着陸速度の速さからソビエトパイロットから非常に嫌われ者だったらしです。でも、大きな声でそれを言うとシベリアへ流刑です、当時のソビエトは。

 と、いう事で、第二次世界大戦で戦闘機を担当する新進気鋭の設計局(ラボーチキン設計局、ヤコブレフ設計局、ミグ設計局)が揃い踏みした訳です。○○-1という機種番号で比べてみると、Yak-1の設計が優れてたのがはっきりと判ります。もちろん、そのYak-1は発展開発されてYak7、Yak9、Yak3と朝鮮戦争前半まで主力級戦闘機設計を続けて行く事になります。そんなヤコブレフ設計局は、朝鮮戦争以後は政治的理由にも恵まれず戦闘機分野から追い出される形で旅客機設計に転向してしまう事となるからさびしいものです。
 ミグ設計局は、MiG-3のあとは一旦落ちぶれてしまい、戦後にMiG-15という傑作ジェット戦闘機を生み出してジェット戦闘機では主力設計局となります。
 ラボーチキン設計局は、戦時中にはYak戦闘機のサブ的存在に甘んじるもののLaG-5、LaG-7と量産戦闘機を開発していきますが、ジェットの時代になると試作機を大量に作るも実用機に至ったのはMiG-15と競合したLa-15(それも生産数は僅か)のみで、1960年にラボーチキン氏本人の他界により設計局は閉鎖されてしまいます(後に復活するが三流設計局でしか無かった)。
 そして、忘れてはいけないのが、スホーイ設計局。Yak-1に遅れること数ヶ月の1940年秋に、排気タービン付きの高々度戦闘機Su-1を設計するが、LaGG-1とYak-1の量産化を重要生産機種と指定した後であったため当然注目される事も無く、挙句にはモスクワ郊外からウラル地方への工場疎開中に機体が破損してしまい機体破棄。1942年に改良型を開発しSu-3と命名されるが、排気タービンが依然とよろしくなく開発中止命令を受けたのでありました。そのように不運続きだったスホーイ設計局はジェット戦闘機時代になってMiG設計局に継ぐ二番目の戦闘機設計局までのし上がり、近年Su-27フランカーの設計によってロシア戦闘機設計局の頂点に就く事になったのです。

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