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 まずは右ChetverikovSPL.jpgの写真を見てください。水面に浮かぶ軍用飛行艇の写真ですがパイロットとの大きさを推し量ると、機体サイズが驚くほど小さく華奢です。二枚飛翔ペラやちっこい尾翼なんかも可愛い。
 この機種の名はチェトベリコフSPL。ソ連海軍の哨戒任務用飛行艇として開発されたれっきとした軍用機です。
 WWⅡどころかスペイン内戦もまだ勃発していない1930年代前半、まだレーダー設備が軍艦に積めるような時代では無かった頃のお話です。潜水艦っていう便利な軍事兵器に航空機を搭載すれば哨戒や偵察がすごく便利だという事で、潜水艦を保有する国は各自でいろいろ試行錯誤している頃、ソ連海軍も負けじとチェトベリコフ設計局に潜水艦搭載用航空機として開発させたのが本機で、名前のSPLとは略称で、サモリュート・ドリャ・ポドヴォトノイ・ロードキ、訳すとそのまんま「潜水艦用飛行機」だとさ。
 もともとチェトベリコフ設計局は、飛行艇を専門とする設計局として開局されたのだがこの頃はまだ未熟でして、躯体原型はOSGAというボート設計局が開発した砕氷船航路偵察用の飛行艇を使用しているそうです。普通、小型の水上機となるとフロート式の水上機を選びそうなものですが、飛行艇式を選んだ。中段の写真をみると判るように、なるほどボートのChetverikovSPL2.jpg設計局が作った機体だけあって胴体はボートそのものです。チャトベリコフはこのボート型胴体(木製)に後方90度に折りたためる主翼を装備、胴体から鋼管ブームを後ろに伸ばしてこれも折りたためる水平尾翼を装備。胴体上部に空冷5気筒でたった100馬力のエンジンを支柱支え式で乗っけてこれも後ろに格納出来るようにした。飛行状態に展開して全長7.4m、全幅9.5m、自重はわずか952kg。乗員は2名なので全備重量は1,100kgくらいに納まる。格納状態にすると直径2.5mの格納筒に入るサイズで、このサイズなら中型潜水艦で装備出来そうな格納サイズである。
 最高速度は196km/h。100馬力エンジンしか搭載してないし、潜水艦搭載用の特殊機だし、別にソ連海軍はパナマ運河を爆撃しようと思ってないから、こんなもんでOKなのだ。浮上航行している潜水艦から飛び立ててちょっとした哨戒が出来て戻ってこれたら良いのだから。
 しかしやっぱり潜水艦の格納庫に押し込むとなるといろいろ設計に無理があったのだ。1935年に黒海沿岸のセバストポリで試作機をテストしたところ、対航性能が極めて悪い。つまり海の上で波に耐える能力が不足で、湾内など極めて波の低いところでしか安全に浮いてられなかったのだ。少し大きな波を受けるとガンガン揺れるし壊れそうになる。この対航性では黒海どころか琵琶湖でも危なくてせいぜい芦ノ湖で観光用としてでしか使えない。
ChetverikovSPL3.jpg  しかも飛行させてみると縦方向の安定性が極めて悪いし、失速するクセもあった。なるほど水平尾翼が申し訳程度のサイズだわさ。これでは、潜水艦の格納庫に入れても危なくて飛べない飛行機は要らない。チェトベリコフSPLは試作だけで終わり、ソ連は潜水艦搭載機を諦めました。結局、第二次世界大戦が終結する迄に、潜水艦搭載機を本気で作って一応の実用化を行なったのは日本海軍だけでした。その晴嵐も結局は華々しい実績を挙げずに変わった機体だけに終わってますね。
 私は大好きな機種です。なぜ、そんなに好きなのって、非武装だしエギングやルアーをメインに釣りしてる私がとっても欲しい機体だからです。普段は自宅の屋根付きガレージに駐機させておいて、休日には自宅の庭から釣り道具乗っけて飛び立って、湾内に着水してすぐに釣り出来る。こりゃ便利だわ。あ、飛行機免許も船舶免許もガレージも無かった(-_-;) 
 

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 太西洋横断飛行といえば、1927年5月20~21日、チャールズ・リンドバーグがライアンNYP(スピリット・オブ・セントルイス号)にてパリ~ニューヨーク間を無着陸飛行を記録したのが有名。しかしこの記録は、単独飛行の初記録であって、それ以前にも太平洋横断飛行を記録している公式記録が存在しました。

 まずは、もっとも早い記録として、「途中着水しながらの大西洋横断飛行」。アメリカ海軍中佐A.G.リード中佐をはじめとする搭乗員計6名(パイロットは正副2名)にて、1919年5月8~31日にかけてニューヨークのロングアイランド島~イギリスのプリマス軍港まで、アメリカ海軍カーチスNC-4飛行艇にて飛行している。横断飛行にかなりの日数を経ているのは、途中で悪天候のために、ニューファンドランド島やアゾレス島などで天候待ちを行なっている為でした。この冒険飛行は、同型のNC-1、NC-3号も参加しているがNC-3号機は途中で不時着水し、NC-1は夜暗と霧に阻まれて5月17日に2,270キロ先で乗員救助直後に海没している。


 そして本当の意味での大西洋無着陸横断飛行は、1919年6月14~15日にイギリス空軍将校ジョン・オルコックとアーサー・ブラウンが達成している。リンドバーグの記録より8年も早いのだ。ビッカーズFB.27ビミー複座爆撃機を改造した機体にて、ニューファンドランド島のセントジョン~アイルランドのクリフデン間の3,186kmを16時間12分かけて飛行に成功した。クリフデンに着陸の際には着陸事故さえ起こした程の危険な飛行(無事生還)であった。当時、イギリスの新聞社デーリーメール紙が太平洋無着陸横断飛行に賞金を懸けていたので、彼らはこの冒険飛行で£10,000を獲得している他、ナイトの称号も得ている。


 なぜ、リンドバーグのほうが有名になったのか?やっぱ、パリ~ニューヨークという大都市間を飛んでマスメディアで大きく取り上げられるし、なんと言っても単独操縦はすごい。レイモンド・オルティーグの25,000ドルの賞金£25,000も獲得して、「翼よ、あれがパリの灯だ」で有名になった自伝も出してます。リンドバーグの話については、もっと続きのネタがあるのでまた今後のコラムネタに残しておきます。
 
 

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 第一次世界大戦で戦勝国となったフランスは、その終結時点で間違いなく最強の陸軍と航空占領を所持していた。そしてドイツから被った150万近い犠牲受けた為、ドイツに対して並々ならぬ警戒心を持っていたのは事実で、敗戦国ドイツの対して過酷な罰を課す事に強固な姿勢を崩さなかった。この事がドイツ人を深く憤らせ両国の仮想敵国感情は変わるものでは無かった。

 しかしその後フランスは、他の戦勝国でも起こった軍縮の動きと緊縮財政。そしてフランス国内の深刻な政情不安を抱えて、軍事思想が停滞。1933年にはイギリスに続いて、航空隊を陸軍より独立されて空軍を設立するが、第一次大戦での陸軍主体の軍事思想の思考はそのままで、今後も陸軍力による塹壕戦をもう一度繰り返す思想しか持てなかった。

 そしてフランスは巨額な軍事予算を、直接ドイツに接する国境に膨大な長さの要塞郡を建設。マジノラインと呼ばれるこの防御要塞を持ってすればドイツ軍が再来した場合にも完璧に防御出来ると踏んでいた。しかしその反動は、今後の戦闘の主力となるべき航空戦力の停滞を招く事になるのは当然の事。

 実際、この当時の航空機新技術の実用化スピードは速く、イギリスやアメリカが限られた予算の中でより優れた軍用機を目指して切磋琢磨していたのと違って、フランスがWWⅡまでに開発設計した軍用機は、何れもが部隊配備の時点では一世代前の機種がほとんどで、ドイツが1935年に再軍備宣言してからもまだマジノライン神話を所持し続けている。1937年になると有能な航空将官たちがあわてて「空軍近代化」を計画するも、近代化軍用機がすぐに量産出来る訳も無く、アメリカから極秘で輸入手続きするのがやっとの状態であった。

 そして1939年にとうとうドイツ軍がポーランドへ侵攻しWWⅡが勃発。この時点で主力戦闘機はやっと500機ほど揃ったモランソルニエMS.406。そしてアメリカから購入したカーチス・ホーク75(P-36ホークの輸出型)が約170機、まだまだ完成した型式と言い難いブロック151/152が約120機。レーサー用から急遽軍用化したコードロンC.174が10機以下。双発長距離戦闘機として配備されていたポテ63シリーズが約300機。フランス戦闘機最強と期待されているドボジアンD.520はまだ開発途中。

 1940年1月にとうとう、ドイツ軍はフランスへ向けて侵攻開始。さあ、巨額な予算を投じて建設したマジノラインでドイツ軍を食い止める事が出来るか!
 ドイツは、マジノラインへ向けて攻めては来ずに、オランダ・ベルギーを蹂躙しながら鮮やかな電撃戦を展開して北フランスから侵入。あっという間に、パリを占領してしまったとさ。

 その間、フランス空軍はどうしていたのか?実は、フランス戦闘機部隊はうまく会敵するとドイツ空軍相手にかなり善戦しています。しかし、イギリスの陸空軍の派遣部隊も応援に来ていながら、戦力の小出しや指揮系統の混乱で、陸上での戦いはドイツ軍の機動力ある部隊に追い回される一方で、前線基地は後退繰り返しでした。フランス空軍部隊がドイツ爆撃機迎撃に出動して基地へ戻ってくると滑走路は既にドイツに占領されていたりしました。5月28日にはダンケルクへ追い詰められたフランス・イギリス両主力軍はイギリス本土へ撤退。6月14日にはパリ陥落。6月21日にドイツ傀儡政権となるフィリップ・ペタンを首班をする新政府がドイツに休戦申し込んで独仏休戦協定が締結される(事実上フランスの敗戦)。
 フランス新政府(ヴィシー政権)は、南フランスの領有をドイツから認められ枢軸軍の仲間入りするハメになりました。

 なぜ、わざわざこのフランスの情勢を書いたかというと、この先のフランス人パイロット達の物語や、当時のフランス植民地の動きが面白いんですよね。あるものはヴィシー政権に忠誠を誓ってイギリス空軍相手に果敢に戦闘したり、あるものは、イギリスへ渡って自由フランス空軍に所属、あるものはソ連で、ノルマンディー・ニエメンのメンバーへ。
 ということでこの続きの物語はまた次の機会で。

 

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 1930年代にアメリカ海軍で運用された硬式飛行船の2隻。第一次世界大戦から偵察や爆撃に使用された飛行船は航続力が高く哨戒任務や稀に爆撃任務に各国で使われていました。しかし1930年代ともなると、戦闘機の能力が真価して来て、哨戒任務で飛行船を飛ばすには危ない状況でした。飛行船に護衛戦闘機をエスコートさせたいが、如何せん戦闘機の航続力は飛行船と同行させようにも全く足りません。そこで考え出されたのが、パラサイトファイターという方式。飛行船に戦闘機を搭載して必要な時だけ飛行船から発進させるという仕組み。

 1931年にアメリカ海軍が、世界初の実用パラサイトファイター母艦としてアクロン号を就航開始。建造会社はグッドイヤー社で全長240m。巡航速度90km/hながら胴体格納庫内に戦闘機5機(内、1機は未組立て)を搭載していました。搭載されるパラサイトファイター機はカーチスF9Cスパローホークという単座の複葉固定脚の戦闘機。当時としてはオーソドックスな機体ながら、コクピット前方上面に大きなフックが付いていて、アクロンの腹部から出し入れ出来るブランコと呼ばれる係留装置に引っ掛けるというアクロバチックな着艦方法が出来る機種。

 なんとも危なかしい方法ながら、アクロンからの離着艦はたいした事故も無く運用され、同型飛行船としてメイコン号も1933年に完成する目処が立っていた。実際、この頃は戦争なんて起きてないので、もっぱらデモンストレーション的な哨戒任務のみ。
 何度か悪天候時に飛行船自体の事故があったものの、1933年にメイコンも竣工し2隻の飛行艇母艦が揃い踏みしたが、その矢先の1933年4月4日、アクロン号が訓練中のニューイングランド州沖合いで突風に巻き込まれて墜落。搭乗員73名中の生存者がたったの3名だけという大事故を起こした。

 残されたメイコン号は、悪天候化での飛行対策改良も行なわれ、太平洋上でハワイから帰国中の重巡洋艦ヒューストンに乗っているルーズベルト大統領へ本国から運んできた新聞を届けたりのデモンストレーションを行なったりしていた。
 しかし、1935年2月12日にカルフォニア沖で嵐に遭遇し、墜落はしなかったが尾翼を損傷しガス洩れが発生。直ちにバラストの即時で大量投棄が命じられたが、制御が失われ後部が下がった姿勢になって実用高度を超えて上昇してしまい、大量のヘリウムが排出されて浮力が消滅。そのまま全体の浮力を失なってゆっくりと海面に墜落して最後には沈没してしまった。
 このアクロン号のメイコン号と事故により、以後、硬式飛行船の建造は行われることは無くなした。もちろん、パラサイトファイターのカーチスF9Cスパローホークも6機の製造のみで生産をストップ。
 2006年には、メイコン号沈没付近の海底調査が行なわれ、搭載されていたカーチスF9Cスパローホークの着艦用フックの部分などが発見されている。
 尚、アメリカはWWⅡ終戦後に、B-36ピースメーカージェット爆撃機を母艦に、GRF-84Fサンダーストリークをパラサイトフィイターとしてもう一度実用化している。
 
 
 

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 シュナイダー・トロフィー・レースとは、1913年から1931年に開催されていた水上機スピードレースで、開催年度を見るとなんと、ライト兄弟が人類初の原動機付き飛行機の初飛行に成功した年から、僅か9年後です。
 フランスのジャック・シュナイダーの主催で開催されたこのスピードレースは、当時はフラップ等を持たない航空機の為、陸上機では離着陸速度を抑えることが出来ず管理下された長い滑走路も不可欠であった理由から、高速機として実用しやすい水上機でのスピードレースとなっていました。
 途中、第一次世界大戦による競技停止期間がありましたが1913~31年までの間に計12回が開催され、国やメーカー、技術者の威信を掛けた白熱したレース人気は、開催を重ねるほど拍車がかかり1931年最後の大会では観客動員数50万人を越える程の一大イベントでありました。

 5年の間に3回優勝するとトロフィーが永久所持出来るという名誉を与えられてレースの開催を終了するというルールで、当初は先進航空国であったフランス、イギリス、イタリア間で争われ、その後、アメリカが参加し(フランスは途中で脱落)、アメリカもイタリアも一度は5年間に3回目勝利のチャンスを掴みましたが果たせず、最終的にはイギリスがスーパーマリンS6Bで平均速度547.305km/hで優勝、1927年・1929年に続き5年間に3回目の勝利でトロフィーの永久保持の権利を得て本レースは終了となりました。

 このシュナイダー・トロフィー・レースは、現在のF1カーレース等と同じように、各国チームが威信をかけて航空技術をぶつけ合い、後年の傑作機を生む土壌を生み出しました。
 有力チームとしては、英国のスーパーマリーン、米国のカーチス、イタリアのマッキやサボイア、ピアッジオ等が国を代表して機体設計を行ない、人物では、後年に名設計士と名を馳せてスピットファイアを生み出す英国のレジナルド・ミッチェルと、イタリアの設計技師マリオ・カストロフィが常に優勝争いを行なうライバル関係でした。

 また、1925年に優勝した米国のカーチスR3C-2という機体のパイロットは、なんと後年にB-25ミッチェルで洋上から発艦して東京初空襲をおこなったジミー・ドゥーリトルでありました。このカーチスR3C-2が優勝したときにイタリアから出場していたのが、映画「紅の豚」で主人公の豚が愛機として有名になったサボイアS21試作機です。

 搭載エンジンではやはり英国のロールスロイス製と、イタリアのフィアット製等がしのぎを削りました。
 そのレース用エンジンは1929年の時点で、英国のスーパーマリン機がロールスロイス製のR2350(最高馬力2,350馬力)で勝利し次回で3回目勝利の王手をかけました。なんとしても2年後の英国の勝利を阻止したいイタリアは、その対抗手段としてフィアット製12気筒1,500馬力のAS5というエンジンを直列に連結したAS6エンジン(合計が24気筒2,500馬力)を設計し、二重反転プロペラ式で実用化しようと切磋琢磨しましたが、その完成が1931年のレースに間に合わず惨敗し、イギリスがスーパーマリンS6Bにてシュナイダートロフィーを永久獲得し閉会しました。
 しかしそのマッキボディにファイアットエンジンのコンビは、シュナイダートロフィーレース終了後も開発が続けられ、最終的に3,000馬力以上にパワーUPされて、マッキMC72というレース用水上機で1934年に700km/h超という世界記録を打ち立てる事になる。このレシプロ水上機のスピード記録は現在でも破られていないから凄い。

 最終優勝したイギリスのスーパーマリン&ロールスロイスのコンビも凄かったが、ことシュナイダー・トロフィーを一大イベントとして牽引して毎回優勝争いに食い込んでいたのはイタリアであった。イタリアの出場機種を数点(レース機は赤がシンボルカラーであった)、ここに画像で掲載しましたが、そのフォルムはなんとも優美で、第二次世界大戦時のイタリア空軍機とは全くイメージが違いますよね。シュナイダートロフィーが終了して約10年で、何故あんなヘタリアになったのでしょう?
 
 

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