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 永世中立国として有名なスイスは、もちろんWWⅡ当時も中立でしたがかなり危険な状況でした。地理的位置に見ても国境が全て陸続きで、北隣はナチス政権化のドイツ、東側もそのドイツに併合されていたオーストリア、南はムッソリーニ政権化のイタリア、西側だけはフランスで安心出来るかと思いきや直ぐにドイツ占領化となっています。  ドイツ軍がいつ攻め込んで来てもおかしく無い状況で、そんな中で中立を保つには、「ドイツが攻めてきたら焦土作戦するぞ~」、 「まず国内のトンネルや鉄道を直ちに破壊するぞ~」、「うちを占領しても益は無いぞ~」 と半ばやっけぱちであるが、実際にそんな内容を宣言してドイツ軍の侵攻を踏み止まらせています。もちろん中立と言っても非武装ではなく、国力の許す限りの防衛軍を編成していましたし、ユダヤ難民に冷淡な態度を取ってナチスドイツに媚びるような事も行っていました。
 そんな状況下でのスイス空軍は、1907年のハーグ条約で定められた国際法上の「中立義務」を果たすため、領空侵犯する航空機があれば、枢軸国側だけでなく連合軍側であろうとも、強制着陸を強いてパイロットを保護・抑留したり、実際に迎撃発砲しています。公式記録ではスイス国内に198機の外国航空機着陸と、6,501回の領空侵犯があったとされており、墜落数は対空砲の射撃も含めて56機となっています。「ドイツ夜間防空戦 - 夜戦エースの回想」 という著書の作者でありドイツ空軍のエースパイロットでもあったウィリヘルム・ヨーネンも、Bf110G夜間戦闘機で深夜に機位を見失ってスイスに領空侵犯してしまい強制着陸させられた上に抑留されています。
 当時のスイス空軍が保有した主な戦闘機は2系統ありました。そのひとつがドイツ製メッサーシュミットBF109シリーズです。Bf109D-1、Bf109E-3を戦前に少数購入したのを皮切りに、Bf109G-6に至ってはライセンス生産させて国産化してています。ところが国産型は完成度が低く使い物にならなかったらしいです。
 そしてもうひとつの戦闘機系統が、今回主役のフランス製モランソルニエMS.406系列です。まず1938年からモランソルニエMS.406Hの輸入に成功しています。その直後からモランソルニエMS.406のランセンス権を取得しD-3800-MS406C-1.jpgたスイスは、直ちに国産化を開始し、一番目に登場したライセンス型がD-3800と呼ばれるものでした。この機体はオリジナルのMS.406から、主翼のバルジ部分を平面に改良したり、不評であったベルト式7.5mm機銃をドラム式に変更する等を行っていますが、エンジンはイスパノスイザ12Y31(860馬力)のままで見た目も性能もオリジナルMS.406と変わらぬものでしたが、スイス国営製作所(EKW)等で76機製造された機種となっています。
 1940年には非力であったエンジンをイスパノスイザHS-51-12Y(1,060馬力)に強化したD.3801を配備。このイスパノスイザHS-12Y-51はスーパーチャージャー技術が導入されており、D-3801.jpgエンジン自体も国産ライセンスで製造していますが信頼性の高い製品にするのに1944年までかかっています。戦後の就役も合わせて224機が製造されています。
 その後も改良が続けられ1944年秋に試作機を飛行させたのがD.3802。この機種は同じ水冷式ながらザウアーYS-2と呼ばれる異形の新型D-3802.jpg エンジン(1,250馬力)を搭載し、最高速630km/hを発揮させ、いくつかの欠点を有しながらも12機が実戦部隊に配置されています。横顔図を見たとおり、別系統のエンジンを搭載した事もあり、そのフォルムがもはやオリジナルのMS.406とは見た目が別機になっています。コクピット周辺あたりなんかはBf109って感じがします。
 最後の改良版となったのがD.3803。エンジンをザウアーYS-3(1,500馬力)に換装してさらにパワーアップされており、バブルキャノピーを採用した上、固定武装に3門の20mm機関砲を装備し、最高速680kmをたたき出したということですので、かなり洗練されたフォルムであったと判断できます。200kgまでの爆弾やロケット弾も武装可能でした。しかしこの機種は、1945年に入り米国からP-51Dムスタングが入手可能となった際、まだまだ試作段階を脱していなかった為、量産中止となっています。D.3603のバブルキャノピーとなっている明瞭な写真や画像を探したのですが見つからなかったです、白黒写真付でその議論をしている サイト はあります。バブルキャノピーは設計段階で1台だけ存在した程度で、D.3002と同じようにBf109に似たキャノピーであった可能性が高いです。
 



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 今回は前回のコラム 「ソ連の初代ジェット戦闘機採用争い」 からの続きの話です。
 1947年にソ連初の主力ジェット戦闘機としてMiG-9が採用決定され量産化に移りましたが、英米をはじめとする西側列強と険悪になって来ている現状ではまだまだジェット戦闘機の能力的に物足りなさを感じていました。そして敗戦国のドイツが研究していた「後退翼」の技術を分捕ってその効果が明らかになると、MiG-9の実線配備と平行して次の世代のジェット戦闘機開発を求めます。
 後退翼の効果とは、音速の壁を越える際に発生する衝撃波についてその発生速度を遅らせる空気の流れを得られる事や、高速時において補助翼の逆効き(エルロンリバーサル)を緩和させるなどの操縦性の改善効果もあり、音速突破を目指していた当時の戦闘機にとっては画期的な技術でありました。しかもWWⅡ敗戦前のドイツでは、その後退翼の上面の適度な位置に境界層フェンスを備え付けると、低速度時での失速特性を押さえる効果も研究されていたからすごいです。
 そんなこんなで、ソ連の後退翼ジェット戦闘機の採用争いが始まりました。
 まずはヤコブレフ設計局がff33f7b7.jpegYak-17という戦闘機を採用争いに参加させてきましたが、前コラムで登場したYak-15を元に、前輪式に変更してついでに尾翼を若干拡大させ、外部燃料タンクを搭載可能にした等の改良機で、未だ直線翼のままでした。最高速度も748km/hしか出せずに真っ先にボツ。しかし後退翼機の開発が失敗した際のバックアップ機として約480機が生産されて、ソ連国内だけで無くポーランドやチェコスロヴァキアにも輸出されています。
 次に具体化するのは1946年9月にテスト飛行させたラボーチキン設計局のLa-150。La-15.jpgこの試験飛行はドイツ製Jumo-004ジェットエンジンを実験的に搭載した形であったが、亜音速を発揮出来る可能性を持った機体として判断され、後退翼の利点を実証した結果となりました。La-150はその後も続けられたテスト飛行で数箇所の改修を終え、La-15(NATOコードネーム:ファンテイル)と改名します。そして正式な搭載エンジンが決定される段階で、ラボーチキン設計局はMiG-15で搭載される事が決定しているクリモフVK-1ターボジェットエンジン(推力2,650kg)の搭載を求めましたが許されず、RD-500(推力1,590kg)を選択させられてしまいます。このエンジン選定は多分に政治的理由によるMiG-15援護があったように思われますが、クリモフVK-1エンジンの元となったロールスロイス・ニーン2というジェットエンジンをイギリスから入手して国産化に尽力したのはミヤコン・グレビッチ設計局であったので致しかたない点もありました。非力なエンジンしか搭載を許されなかったLa-15はやはり充分な性能を発揮出来るはずもなく、主力戦闘機の座は当然のごとくMiG-15に奪われましたが、迎撃戦闘機として約100機が生産されています。また、このLa-15がラボーチキン設計局として結局は最後の機体設計となり閉局してしまう事になりました。
 そんな中、満を持して具体化してきたのが前述のとおりミヤコン・グレビッチ設計局MiG-15.jpgのMiG-15(NATOコードネーム:ファゴット)です。 ソ連当局の期待を受け、クリモフVK-1ターボジェットエンジン(推力2,650kg)を搭載して量産化されたその性能は、最大速度1,067Km/h、実用上昇限度15,500mを発揮。飛行テスト当初こそ、高高度飛行や高速飛行中に突然スピンに陥るという重大な欠陥があったものの速度計と連動したエアブレーキを追加装備する事によって改善させて、15,000機以上が生産される傑作機となりました。
 このMiG-15はソ連の介入によって共産化した東ヨーロッパ諸国や中華人民共和国にも輸出され、1950年6月から始まった朝鮮戦争では、アメリカ軍を初めとする国連軍の直線翼戦闘機(F-80C/Dシューティングスターやグロスター・ミーティアF8)では全く歯が立たず、高高度で爆撃編隊を組むB-29もバッタバッタと落とされてします。 アメリカ空軍が急遽、最新鋭の後退翼戦闘機:F-86Aセイバーを投入し制空権争いが互角となり、F-86E型やF型が登場したのと同時にレーダー機器の充実と性能向上によってやっと国連軍が制空権を確保出来た状況でありました。
 MiG-15は朝鮮戦争後も東側諸国で愛用され、戦闘機タイプを初めとする単座型は1980年代、練習機タイプの複座型に至っては20世紀末頃まで使用され続けた息の長い軍用機となりました。
 
 

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 時は1945年にWWⅡが終戦した直後から2・3年間のお話。WWⅡで連合軍として戦勝国の一員となったソ連は、純然たるジェット戦闘機開発に遅れていた。
 WWⅡ敗戦国となったドイツ機はさておき、同じ戦勝国のイギリスではグロスター・ミーティアF.1がWWⅡで実線配備されていたしデハビランド・バンパイアも控えている。アメリカでもP-80シューティングスターが量産化を始めている状況だった。そこでソ連当局は次期主力となるべきジェット戦闘機の開発を各設計局に急ぎ指示するのは当然の事であった。
 そこでまず具体化されて来たのは、ヤコブレフ設計局のYak-15。fade51f2.jpegこの機体、急増開発に応じる為にレイシプロ傑作機Yak-3を改造設計したジェット戦闘機であった。エンジンは、ドイツのJumo-004をパクッて国産コピーしたRD-10(推力800kg)が1基。そのジェットエンジンをYak-3の機首に無理やりくっ付けた。コクピット下に位置する排気口は高熱流を発するので、排気口付近の胴体部分は防熱鋼板を貼付けている。その他はほぼYak-3を踏襲したままであり、着地姿勢も尾輪式のままであった。武装は23mm機関砲1門、そもそも1門しか無いのにその携行段数はたった60発というしょぼさ。最高速度は768km/hで当時のレシプロ機と大差は無く、垂直尾翼の拡大や防熱鋼板した部分の延長などの改修必要部分もテスト飛行で多く発生し、次に紹介するMiG-9に主力戦闘機の座は奪われています。しかし、まあバックアップ的にちょっと造っておこうかということで、約280機が生産されています。NATOコードネームはFeather(フェザー)。
 Yak-15に少し遅れて具体化してきた機体は、ミヤコン・グレビッチ設計局のMiG-9戦闘機。Mig9.jpgソ連初の実用ジェット戦闘機となりNATOコードネームはFargo(ファーゴ)と名づけられている。ジェットエンジンはドイツで開発されたBNW003をパクッて国産化したRD-20ターボジェット(推力800kg)を胴体中央下に2基搭載。中翼の位置に配された主翼は直線翼であり、Yak-15と違って前輪式の着地姿勢となっている。1946年に初飛行し最高速度は910km/hを発揮。まんまと初代主力ジェット戦闘機の座を獲得し、おおむね2,000機程度が実線配備され複座練習型も生産されている。WWⅡ当時はMiG-1やMiG-3などバックアップ的な機体しか採用されなかったミヤコン・グレビッチ設計局が始めて得た主力戦闘機の座でもありました。
 しかし、この戦闘機には設計欠陥があった。機首エアインテーク(空気取入れ口)のど真ん中に位置させている37mm機関砲の武装位置が、ジェットエンジンに致命的な障害を与えるのだった。詳しい障害が私にはわからないのですが、発砲時の発射煙やカーボンのカスがエンジン吸気部分に吸い込まれるのは想像がつきますが、もしかして空薬きょうも吸い込まれる仕組みだったのか? まあ、そんなこんなで、せっかくの37mm機関砲は使ってはいけない武装でありまして、他に23mm機関砲2門も脇に装備されていたから、とりあえず主力戦闘機になり得た訳です。
 そしてスホーイ設計局は、ソ連当局を驚かす機体を設計してきた。下図に見られるとおり、ドイツのMe262にそっくりなSu-9と呼ばれる機体であった。まあMe262をそのまSu-9.jpgんま改造した訳でなく、バブルキャノピーやカタパルト脱出式の操縦席、エルロン兼用のエアブレーキなどの新機軸も備えていたが、Me262で最も肝心の後退翼は真似されておらず直線翼なのが残念な機体であり、最高速も800km/hそこそこであった。後にこの設計はSu-11、Su-13とエンジン等を強化した設計が続けられてますがどれも試作段階で開発中止となっています。岡部いさく氏の著書によるとこのSu-9シリーズの設計が、Me262に似すぎてスターリンの激怒に触れて、スホーイ設計局は数年冷や飯を食らったと語られています。そういえば1947年ごろからスホーイ設計局の新作発表は消えています。1956年のSu-7フィッターAでやっと復活して航空史に再登場している状況ですから、やっぱ冷遇されていた事実があったんですね。
 もうひとつのソ連の代表的な戦闘機設計局のラボーチキンはどうしてたっかって?1948年になってもLa-9およびその派生型のLa-11というレシプロ空冷の戦闘機を堅実に開発していました。あと、名門ポリカポフや、グドコフ、シェフチェンコ・ニーチキン、タイロフなどの設計局は既に閉局されていました。
 1945年~48年のソ連のジェット戦闘機の話はこのように付け焼刃的なものでした。その間にも、ドイツがWWⅡで研究していた航空技術が続々と明らかになってきます。特に音速飛行を容易なものにする後退翼の技術が最たるもので、1948年後半から各設計局は次期主力戦闘機という採用争いを繰り広げる事になり、傑作機MiG-15ファゴットが産まれてきます。
 

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 ルータン・ボイジャーとは、下記の写真にあるようなレシプロ航空機で、1986年に世界初の無着陸・無給油にて地球一周を成し遂げたアメリカの固定翼実験機です。この世界記録は、ディック・ルータンとジーナ・イェーガーという2名のパイロットで樹立しています。ディック・ルータンは元米空軍パイロットでベトナム戦争ではF-100Dスーパーセイバー等で実線参加したこともある勲章受賞者で、副操縦士のイェーガーは、ディック・ルータンの恋人であった女性で、テストパイロットの経歴も持つ航空技師でありました。機体の開発設計はバート・ルータンという新進気鋭の航空技術者。実はディック・ルータンの実弟でありました。前人未到の世界記録でありなありながらなんともまあ、家庭的というかあまり野心を感じさせないメンツでありました。もともとこの三人の活動はボランティア的要素が強く、当初の製作機は3人への個人的な寄付が始まりで、計画実行まで4年もかかっています。
 では、その機体を見ていきましょう。胴体は双胴式で、前翼(カーナード翼)と主翼の両方で双胴が結合されて、二つの翼は、高いアスペクト比を得るために極めて細く長く設計されている。あくまで長距離記録を狙うため、胴体も垂直尾翼も空力に優れた長細いフォルムであり、全長9.9mに対して全幅はなんと33.8m。機体構造はケブラーなど強化繊維と樹脂を用いた軽量複合材。エンジンは、中央の短い胴体に前後1基づつ配した。前エンジンにコンチネンタル社のO-240(空冷110馬力)、後エンジンに同じくコンチネンタル社のIOL-10(液冷110馬力)。この2基のエンジンを同時稼動させるのは離着陸や上昇時のみ。飛行安定した時点で後エンジンだけの推進式で飛行する仕組みとなっていました。この時、前エンジンのプロペラはフェザリング状態(無抵抗回転)。
 そんな華奢な機体であるから、やっぱ飛行でもっとも懸念されるのは風を伴う悪天候であるのは容易に想像がつきますし、燃料搭載スペースも限られています。
 ルータン・ボイジャーが記録飛行に出発したのはカルフォルニア州エドワーズ空軍基地。飛行はすんなり樹立出来たはずもなく、タイフーン等の悪天候地域を避けたり突っ切ったりする為に余分な燃料が費やされ、さらにリビアの領空通過が許されなかった為に大幅に迂回せざるを得ず燃料残量は常に2人の懸案であり続けました。さらに終盤には燃料ポンプの故障にも見舞われています。それでも2・3時間ごとの交代方式で操縦を続け、世界一周を成し遂げて無事にエドワーズ空軍基地に帰還しました。たとえ恋仲同士であっても狭いコクピットの中、食事とかトイレとかも行わなければならず、さぞストレスが溜まったに違いないです。
 無着陸・無給油の航続距離40,212kmで地球一周という大々的な世界記録を樹立し国際航空連盟にも公認を受け、ハッピーな冒険飛行は成し遂げれました。飛行時間は約9日間(216時間)で平均時速187km/h。記録達成後、ルータン・ボイジャーはワシントンの国立航空宇宙博物館(スミソニアン博物館郡の一部)に寄贈展示されています。
 この無着陸・無給油飛行記録は2005年にジェット機で破られるまで19年間に渡って世界一であったのもすごいが、その新記録を更新したジェット機体(グローバル・フライヤー)は、弟のバート・ルータンが設計主導してスケールド・コンポジッツ社よって開発製造されたというから、もうひとつすごいです。機体フォルムを見比べれば、設計思想が同じって判りますよね。
 これで、ジーナ・イェーガーが、世界初の音速を超えた人物となったチャック・イェーガーと血縁ならもっとすごいのに、残念ながら家系は全く違うそうですし、世界記録樹立した数年後にはディック・ルータンとジーナ・イェーガーの恋仲も解消となっていて、ルータン・ボイジャー資金の不正利用について訴訟争いを起こして揉めたそうです。
 

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 本そういち氏が描いたマンガ 「ガンパパ島の零戦少女」 。お嬢様小学生:朝子が乗り物と心を通わせる能力を持っていて、零戦五二型のレプリカを得て操縦していくというお話。このマンガを知ったのは、75075830.jpegたまたま寄った大型書店の店頭で第1巻を見かけたものだった。どうせまたパンチラ少女の萌え系の話だろうと期待薄ながらもさっそく購入。  読み始めるとその期待薄は吹っ飛んだ。少女が始めて乗る零戦五二型が、車輪止めをはずしてエンジン始動させて離陸していく所が克明に描かれているのである。零戦五二型と会話しながら要所要所を教わりながら離陸し、その機体特性をも学んでいくお話。離陸させるだけでも二話を費やしている程である。そう、この少女は零戦五二型と会話出来るのである。零戦五二型のしゃべり口調は現代風で、実機が存在した頃の古風な口調では無いけれど、軍用機ファンを刺激するには充分な内容であった。東海地方で製造された機体が多かったので、名古屋弁なんかでしゃべったらもっと面白かったのに・・・とも思った。
 離陸操作を覚えた主人公の前には、同じクラスのアメリカ少女がP-51Dマスタングで現れます。ペイント弾による空中戦が始まる展開に移り変わります。この空中戦の間でも、主人公と零戦五二型は暢気な会話で勝利を得たりして、なんともおかしいです。  第2巻からは、各国の少女が名戦闘機とともに登場してきてレースを展開し0622530_c.gifていきます。さながら軍用機の 「サーキットの狼」 というストーリ重視となりちょっと興味度は下がりましたけど、はちゃめちゃながらなレース展開ながらも各国の名戦闘機が続々登場してきて読み進みました。
 第3巻はちゃっかり大手書店に予約して買い求めちゃう(なんせ発刊数が少ないらしいです)。で、第3巻を手にすると、急な展開でレースを終了して完結しちゃってました、うぅぅ残念。様々な個性を持ったキャラクターとともに数々の戦闘機が登場してきて、もっと 「操縦」 や 「飛行特性」 を描いて欲しかったのに~。  つい最近、また読み返そうっと思って、本棚をくまなく探しても無い。あら?娘がどっかに持って行っちゃったか?まあ良いや。ネットで検索したら、マンガ1巻がWeb上で読めるサイトを見つけましたので、一度読んで見て下さいませ。
  Webマンガアクション:ガンパパ島の零戦少女
 今後、アニメ化されて欲しい一品です。出ないかなぁ、無理か(ーー;)  



 

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