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06.jpg 「ストライク・ウィッチーズ」 「ヘタリア」 に続いて、こ のブログで3つ目に紹介するミリタリー系アニメは、ガールズ&パンツァー。  おさっしの通り、女子高生と戦車(第二次世界大 戦時代)を組み合わせたアニメです。茶道や花道と並んで「戦車道」なる女性のたしなみがある世界観で繰り広げられる女子高の必修クラブ活動がアニメの舞台です。今年の10月からTV放映が始まって、「どうせ少年アニメ」と思いながらもみ始めたのであるが、なんといっても戦車のアクティブな動きに見るものがあって、まあ、「イギリスの歩兵戦車(マチルダⅢやクルセーダーⅦ)がそんな速度で走れるわけが無い!」などの突っ込み所もありますが、ストーリテンポも良いので、いまでは放映時間が楽しみな番組の一つとなってしまった。  主人公は、戦車道の流派のひとつ 「西済流38T.jpg」 の家元の娘:西済みほ。なぜか巨大空母に存在する女子高に所属し、普通の女の子とともに戦車道全国大会に出場するというのがメインストーリ。
 主人公が車長を務めるのはドイツⅣ号D型。ドイツⅢ号突撃砲F型やM4シャーマンなんかのメジャー戦車とともに、チェコの38T戦車などちょっとマニアックな戦車もチームメイト車両として出てきて、その独特な操縦席などもしっかり描画されていてびっくり。いきなり最初から、ドイツのキングタイガーや、ソビエトのJS-3などの超強力な重戦車が出てこない所も良いですね。私的には軽駆逐戦車ヘッツァーなんて今後登場して欲しいところです。
 一昔前、「セーラー服と重戦車」なるマンガ本を読んであまり感銘を受けず、戦車に対する興味度も軍用機と比べて低かったのですが、これは楽しみなアニメとなりました。現在5話まで放映済みですが戦車に興味ある方、一度試しに見てください。
 ホントに戦車の動かし方が小気味良いんですよ。パンチラも無いし。
 ガールズ&パンツァー公式サイト からPV動画が見れますし、第1話が無料配信されています。


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 第二次世界大戦時、ドイツには軍事に貢献した優れた博士がたくさん輩出されています。名前を挙げるだけでも、前章のリヒャルト・フォークト、ロケット技術の先駆者であるヴェルナー・フォン・ブラウン、大気圏爆撃を研究したオイゲン・ゼンガー、ワルター機関を開発したヘルムート・ワルター、フォッケウルフ社で活躍したクルト・タンク、ゴーダ社で全尾翼機を現実化させようとしたホルテン兄弟。アインシュタインも元々はドイツ人であった。Me163B_p2.gif
 そんな中、優れた航空技術でドイツ空軍をささえたドイツ航空業界において、ひときわ異彩を放った博士が居た。それがアレクサンダー・マルティン・リピッシュである。流体力学の先駆者的存在で、無尾翼・デルタ翼の追求を行ない、ロケット迎撃機のMe163コメートを設計した事で有名。
 1894年にミュンヘンで生まれたリピッシュは、第一次世界大戦時に空中撮影員・観測員として従軍し航空機に目覚め、退役後にツェッペリン社にてグライダー研究機関の一員となる。ドイツ滑空機研究所として再編されたリッピッシュは、この頃から無尾翼機に興味を持ち、デルタⅠ~Ⅴ、DFS39、DFS40と次々とデルタ翼グライダーを開発。また、世界で初めてロケット動力で飛行したエンテ・カモをも設計した。
 そしてリピッシュはドイツ航空省の指示で1939年前半、メッサーシュミット社へ派遣され、ロケットエンジン搭載の高速戦闘機としてMe163コメートを開発した。この機体は世界初の実用化された無尾翼デルタ機で、飛行時間がわずか8分ながら一気に時速960km/hに達するというバケモノ機であった。しかしこのMe163機体は、危険な燃料(人を溶解する混合液体)を扱わなければならず、ソリLippischP13a.gifを使った降着も難しく、そして何よりも航続力が決定的に不足していた為、後世、実用兵器としては失敗策であったと判断されている。Me163コメートが実戦配備される中、ウィリー・メッサーシュミット博士との間に摩擦が絶えなかったリピッシュはウィーン航空研究所に移籍し、デルタ翼機が超音速飛行に適している事を証明する為、今度はデルタ翼超音速戦闘機リピッシュ P.13aの開発を開始するが、滑空試験機を製作している段階でドイツ敗戦を迎えていまう事となりました。
 このリピッシュP.13a、機体は前縁60度、翼厚比16.6%の分厚いデルタ翼で、中央先端に突出した空気取入口を設けたラムズジェットを搭載し、コクピットはボディと一体化した垂直尾翼に位置していた。また石炭微粉末を燃料としていた迎撃機であった。最高速度はなんと1,650km/hだから音速の壁を軽くぶっちぎっている(あくまで計画です)。
 しかしリピッシュの流体力学の追求は止まりませんでした。ペーパークリップ計画と称されるドイツ技術者連行によって米国へ連れて来られたリピッシュは、数々のデルタ翼研究の提唱を行なう事になった。特にリピッシュは米国コンベア社とコンビを組みXF-92を試作した経験から、、F-102 デルタダガー、F-106 デルタダート、B-58ハスラーの設計に多大な貢献をした人物となった。また1950年よりコリンズ社にて、地面効果翼機の研究を行ない、その結果として、独創的な垂直離着陸機や空中翼船の設計を先駆けたが、病気が原因で西ドイツに移住し1976年に没した。
 彼は空中撮影員を経験したあと、航空機の速度の魅力に取り付かれた人物といってよく、優れた頭脳と頑固な性格、素っ頓狂な日常の言動で、いわゆる変人博士の代表的なイメージのままであったらしい。
 
 

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 第二次世界大戦時にドイツのブローム・ウント・フォス(Blohm+Voss)社に在籍して活躍した航空設計技師である。彼の設計する航空機は、斬新な設計の多いドイツ機の中でも、左右非対称フォルムなどの斬新でユニークな軍用機を設計した人物として知られる。
 学生時代にエルンスト・ハインケルと出会い、第一次世界大戦時にはツェッペリン飛行船社で働けるようになり、クラウディス・ドルニエから航空設計技師となるべく教育も受けている。1922年に設計士として博士号の学位を受けると、翌1923年からドルニエ社の派遣技師として10年間、日本の川崎航空へ派遣されていた。1933年にドイツに戻った彼はブローム・ウント・フェス社へ迎え入れられ数々の名機・珍機を設計する事になる。Xv64465.jpg
 彼が主導した設計で最も有名なのは左右非対称構造の偵察機BV141。コクピットに360度視界を得るために胴体とコクピットを並べた独特のフォルムであったが、意外にも操縦安定性が高かったそうだ。また、BV138、VB220ヴィーキング、BV238などの飛行艇の設計においても多くの実用機を排出した。
 ドイツ敗戦直後、連合軍によって様々なドイツ試作プランが発見されたが、その中に、リヒャルト・フォークトの設計プラン機も何案も存在していた。よく知られるペーパープランは、翼端の両端にエンジンを配して三発機にしたP.170シリーズ。両翼端に尾翼を配したP.209~21。そして中でも驚きのプランは、P.202と名付けられた単葉可変翼機である。双発ジェットエンジンの胴体に、上翼式で一枚の主翼が装着されており、正面から見ると一般の爆撃機と変わらないフォルムであるが、その主翼は中心を基点に主翼全体が一方向に稼動する
du202.jpg
仕組みとなっており最大35度まで水平移動できるものあった。確かに可変翼であるが、「右側が後退翼35度の時、左は前進翼35度じゃないか~」、「翼端失速の宝石箱やん、まっすぐ飛ぶべるんかい」と突っ込みたくなるが、本プランはペーパー段階で実機は製作されていないので何とも言えない。どうやら、後退翼や前進翼での評価テストに使用する為のものであったらしいのだが、1979年にはアメリカのNASA航空宇宙局が同じような形状の単葉可変翼をもつAD-1という実験機で実際に飛行させているからP.202も飛んでても可笑しく無いプランだったようです。 
 リヒャルト・フォークト自身は、戦後、米空軍に請われ、アメリカへ移住しボーイング社では特に垂直離着陸機(VTOL)と水中翼船の設計に携わり、1979年にカリフォルニアにおいて84歳で死去している。
 

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 対空戦車とは、戦車や装甲車の車体を利用した機動性の高い対空銃砲を搭載した車両で、機動力の高い事から前線部隊や輸送部隊の防空に用いられた兵器である。第二次世界大戦では対空ミサイルの実用化が無かったため、それほど高い撃墜率を持っていなかったが制空権を失った陸上部隊にとって無くてはならない存在であった。相対的に装甲が薄く地上戦には向かない存在であるが、搭載銃砲の発射速度が速い為、しばしば地上戦闘でも実績を残している。
gjg.jpg
 今回はその中でも、ドイツ軍のⅣ号戦車の車体を利用した対空戦車を紹介。
Sd.kfz.161/3メーベルワーゲン……37mm対空機関砲を1門をオープン稼動式砲塔に搭載したもの。
たった1門の対空砲ながら生産性が高く1943年3月から1年間に240両が生産され終戦までドイツ対空戦車の主力を勤めた。
Sd.kfz.161/4ヴィルエルヴィント……上記のメーベルワーゲンを補うため生産開始された4連装20mm対空砲を9角形砲塔に搭載したもの。ミリタリーファンにはおなじみの車両だが、4門の20mm機関砲を搭載するも射程・威力が物足りず、メーベルワーゲンよりも対空戦闘能力は劣っていた。対空戦闘時には砲塔内が狭く指揮観測官は砲塔外に立たなければいけないという滑稽な面も持っていた。生産に関しても84両でありそのほとんどがⅣ号戦車からの修理改造であった。
オストヴィント……メーベルワーゲンの火力不足を鑑みて、メーベルワーゲンから37mm対空機関砲1門をより強力な
gjg2.jpg
ものに換装し、砲塔はヴィルエルヴィントと似たような6角砲塔となった。砲塔の派生形と合わせて43両が生産されている。
オストヴィントⅡ……オストヴィントの単装を縦型連装に強化する設計車両であったが実現せず。
Flakpanzerwagen604/4クーゲルブリッツ……Uボート21型に搭載予定であった密閉式砲塔を転用搭載した対空戦車。毎分650発の発射速度を持ったラインメタル社の30mm機関砲を2門搭載した強力なものであった。1944年4月から開発開始されたが、工場及び資材は戦況悪化の影響を受け完成したのは僅かに3両であった。
 連合軍側においても、それぞれ既存の戦車や自走砲の車体を利用したものが実戦化されているが、何れにおいても第二次世界大戦時の対空戦車は、決定的な対空防御力を持つものではなく、実戦投入数も少なく、「威嚇力」「抑止力」の性格が強いものであった。

 

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 イカルス(Ikarus)社で設計され、ロゴザルスキー(Rogozarski)社で製作されたユーゴラビア製の単座戦闘機。
 木金混合構造の片持単葉翼、引込み脚が採用されている等、英国のハリケーンをかなり意識して設計されており外見もかなり似ています。1938年5月に原型機が初飛行し、ユーゴスラビア王立空軍に総計13機が引き渡されている。
 1941年のユーゴスラビア王立空軍は、国産のIK-3、及びドイツ製、イタリア製、フランス製、イギリス製の軍用機を会わせて416機保有しており、同年9月から始まったドイツ軍のユーゴスラビア侵攻では、Bf109に護衛されたJu87やDo17の爆撃を抑える事は到底出来ず、貧弱な対空陣地も簡単に排除されて首都ベオグラードは12日間で陥落し、ユーゴスラビア王国は占領され枢軸国に分割占領されてしまいます。クロアチア地域のみドイツ傀儡としてクロアチア独立国が存続しますが、1943年にパルチザンの主導によるユーゴスラビア民主連邦、および1945年の正式なユーゴスラビア国家となるまで枢軸国占領下でありました。fik-3.jpg
 Ik-3はドイツ軍のユーゴスラビア侵攻時、ドイツ空軍相手に果敢に迎撃戦に使用されますが13機のうち11機がドイツ軍に撃墜された記録が残っています。残った2機はドイツ軍による接収を恐れて破却されています。
 スペックを見るとIK-3は、同時期のハリケーンMkⅡより少し優れている数値であり、プロペラ軸にモーターカノン式の20mm機関砲も標準装備されたナカナカのポテンシャルでしたが、経験豊かなドイツ空軍相手に絶望的な迎撃戦を展開せざる得なかった事は間違いありません。
 

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