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 見事な電撃戦を展開してポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスを下したドイツ軍はいよいよイギリス上陸を企図してイギリス本土爆撃作戦を開始。1940年7月から始まったバトル・オブ・ブリテンが発生して、英独両空軍が熾烈な攻防戦を展開した重要なターニングポイントとなっています。この攻防戦の本筋は有名なので今回は説明も抜きにしますが、こういう激戦時期には必ずって良いほど、敵を出し抜くべく新たな戦略試みがなされるもので、今回はそのバトル・オブ・ブリテンで画期的なアイデアとして登場して結構な数の専用機が用意されたけど、ほとんど効果無く終わってしまった変わったアイデアで生まれた特殊派生型の話を二つ。
 バトルオブブリテ20_He111H-8w_1.jpgンにて、イギリスは軍事工場やレーダー監視施設など本土重要拠点が度重なるドイツ軍爆撃機の攻撃を受けて苦しみます。そこでイギリス軍はその一策として、重要拠点の上空に「阻塞気球」を張り巡らせてドイツ軍爆撃機の侵入を阻止する戦法を取るようになります。この阻塞気球は気球同士に張り巡らされているロープにドイツ軍爆撃機が絡まると気球内にセットされている爆薬が炸裂する単純な仕組みですが、高高度から水平爆撃する時はともかく、Ju87スツーカーの急降下爆撃など低空からの精密爆撃には極めて邪魔な存在でありました。
 そこで考え出されたのがバルーンケーブルカッターと呼ばれたHe111H8w。当時のドイツ軍主力爆撃機であったHe111を改造したもので、He111の機体f1b1777c.jpeg前方に翼幅いっぱい、全幅16.4mに渡って刃の付いたカッター鋼を追加装着したもので、重心バランスを取る為に胴体後方にカウンターウエイトも積み込まれていました。
 このHe111H8wバルーンケーブルカッター機は、実戦に使用され始めた頃、実際に阻塞気球ケーブルを切断して急降下爆撃機の侵入路を確保する活躍を見せましたが、鈍足で運動性の低いHe111H8wは対空砲火に狙い撃ちされるようになり30機程度で生産中止されています。また、いくら細い鉄鋼であっても飛行バランスが乱れて操縦は極めて難しいものてあったようで、より高馬力な機種での改造案も断念されている。結果的にイギリス軍の安価な阻塞気球がドイツ空軍にとって最も破壊すべき英軍監視レーダー施設を有効に防衛したって感じです。
 もうひとつ、イギリス軍側でもこの時期だけ使用されたアイデア改造機あります。機首に大型のスポットライトを搭載して夜間侵入してくるドイツ爆撃機を照らし出そうというもの。この当時の夜間爆撃機への直接攻撃は、地上からのサーチライトで照らし出された敵機を戦闘機が視認して銃撃を加える方法であった為、利に適った方法だと判断したイギリス空軍は、双発攻撃機ダグラス・ボストンMkⅢ(A-20ハボックの英国版)の機首に約1km照らせるライト20_Turbinelite.jpgを搭載する改造を行った。最終的に10個小隊が編成されているから少なくとも40機以上でけっこうな数を製造している。このタービライト・プロジェクトと称された迎撃法は、タービライト機とハリケーンがコンビを組んで、ライトで照らし出された敵機をハリケーンが次々と撃墜していく寸法であったが、いざ実戦に投入するとうまくハリケーンとの連携が取れないどころか、タービライト機が敵機にスポットを当て続けられる訳が無く、そのうちに味方のショートスターリングを照らしてしまって誤射しちゃった事件も発生して、この作戦は中止。実施期間中の本当の戦果はHe111がたった1機だったらしい。イギリス空軍はバトルオブリテンを辛くもしのいだ後に、懲りずにモスキートNF.MkⅡをタービライト機に改造テストしたらしいが、さすがに実際に使用しなかったそうです。
 今回はバトル・オブ・ブリテンに試された思いつき戦法が失敗した例をあげ、「最初から失敗に終わるのが判るでしょ」と思う程の安易なアイデアでやらかしていますが、当の両国にとっては起死回生の新アイデアで滑稽と思ってしまうのは結果を知っているからかも知れません。逆に、B-25を無理やり空母から発進させて日本本土を爆撃したドゥリットル隊や、使い物にならなかった双発戦闘機月光に現地改造で斜め銃を搭載したら思わぬ高成果を上げたりした成功した思いつきアイデアがもあったりするから、やってみなければわからないって事もあるんでしょうね。
 

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 WWⅡの北アフリカ戦線。イタリア軍のエジプト侵攻から始まる連合軍(イギリス・アメリカ)対枢軸軍(ドイツ・イタリアなど)の戦いです。この戦場で有名となるのは、ロンメル、モントゴメリー、パットン等、地上軍の活躍話がメインとなるものが多いですが、その地上軍をエアカバーすべく、参戦国の戦闘機たちは激しい空戦を繰り広げています。
Hurricaneimages.jpg 但し、地中海沿岸は別にして、その戦場のほとんどは砂漠が広がる乾燥地帯。ヨーロッパで使用しているままの機体でこの砂漠地帯に軍用機を常駐配備すると、砂塵と気温の高低差に侵され機体が戦わずして損傷していくという過酷な環境でした。従って、新型機が開発されたからすぐに北アフリカに大量配備しようという訳には行かなかったのです。
 そこで、各国の戦闘機は、主に熱帯用フィルターを取り付ける改造を防塵対策として行ないます。この熱帯用防塵フィルターは、イギリス機ではVokes (ボークス)仕様、ドイツ機ではTrop (ドイツ語でTropische、熱帯の意味)と呼ばれていまして、その構造と形は各国で違えど、主に過給機の空気取入れ口からの砂混入防止の働きをさせました。また水冷エンジン機にはラジエター前面の防塵も重要なファクターでした。
 もちろん上空での飛行状態ではフィルター部分を開けられる構造となっていましたが、如何せん、空気吸入を抑制している訳ですからエンジンの噴き上がりはアップアップの状態です。
88_Hurricane_Mk2C.gif
 アフリカ戦線で主力として戦った戦闘機を挙げていきますと、連合軍側では、ハリケーンMkⅡ、キティホークMkⅡ、P-40E/Lウォーホークが主体で、スピットファイアMkⅤも少数が配備されてました。イギリスの水冷エンジン機種は何れもVokes(防塵フィルター)を機首下面の過給機吸入口を覆うようにしてボディと一体化する方法で装着されていました。側面図で見るとハリケーンもスピットファイアも顎がしゃくれた感じになってます。アメリア製のP-40シリーズは機首のエアインテークの中に防塵フィルターが装備されている為、外観からでは見えません。ちなみに、デハビラント・モスキートは北アフリカでは昼夜の温度差が原因で接着剤の木材構造剥離が起こり易く、防塵フィルター以前に問題がある機種もありました。

 枢軸軍機ではドイツのBf109E型の後期版とF型が主体で、Bf110Cをサブとして配備しており、若干のBf109G-2とFw190A-4も終盤に配備されていBf109E-7Trop.jpgます。Trop(防塵フィルター)は機首側面の過給機吸入口を直接、筒状のカバーで装着していました。イタリアは複葉のMC.42ファルコを使用していましたが後半からはマッキMC.200サエッタやマッキMC.202フォルゴーレなどの単葉水冷エンジン機種が徐々にまちまちに配備され、ドイツ機と同じ方法でASと呼ばれた防塵を装着していました。
 空戦状況においては、両陣営ともバトル・オブ・ブリテンの教訓を活かし一撃離脱が主体で、華々しいドッグファイトよりも、視界不良な状況が多い中でいかに先に敵機を見つけ優位な位置から射撃するかがポイントとなっていました。
 イギリスがスピットファイアMkⅤをあまり多く配備出来なかった為、常にBf109シリーズが質量とも勝っていた状況であったようです。
 また、各国の活躍機種を見てみると、敵の機甲師団や陣地などを急襲する戦闘爆撃機が活躍できた戦線でもありました。

 北アフリカ戦線で最も有名な戦闘機パイロットは、185機の合計撃墜記録を持つハンス・ヨヒアム・マルセイユ。当時のドイツ空軍にはもっと沢山の撃墜記録を持ったパイロットがいますが、マルセイユは優れた視力と見越し角射撃の名手で、その撃墜スコアのうち151機がアフリカ戦線でのわずか約1年半の任務期間で挙げたものであり、「10分間に8機撃墜」 「1日に17機撃墜」 「1ヶ月に54機撃墜」 「1機を撃墜するのに要する弾数は平均15発」 と言うような逸話を沢山持っていた。また撃墜記録151機の内、147機が戦闘機であった事は驚くべき戦跡である。彼の乗機するBf109はいずれも「黄色の14」を描いており、Bf109F-4_Gelbe14.jpgドイツ軍のプロパンダ政策の影響もあり国民的英雄となって「アフリカの星」と呼ばれていたほどの天才的なパイロットであった。私と同じくかなりの男前であったとも言われています。
 しかしそんな天才マルセイユの最後はあっけなかった。1942年9月に、受領して間もない新型機Bf109G-2/Tropで出撃中に、敵地上空でエンジン火災が発生。味方領域まで退避させようとするも、揚力を失って背面で急降下する機体から脱出を行なう際に体を尾翼に激突させてしまい、パラシュートが開かず23歳という若さで墜死してしまいました。
 

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 新谷かおる氏の航空戦マンガのエリア88。学生の頃、第2・第3世代のジェット機に興味を持ったのはこのマンガのセイでした。マンガの舞台は、架空の王制国家アスラン。中東地域っぽい設定地で物語は正規軍vs反乱軍という内乱戦の中で、主人公は正規軍から雇われた腕利きの傭兵パイロット部隊。当時、実際にあった様々な軍事的時事や論争、例えば、「中東戦争」「東西冷戦」「死の商人」「外人部隊」「大韓航空機事件」「武器実験場」等をマンガなりに取り込んでいて、一癖も二癖もある傭兵たちが交わす哀愁の漂うセリフを絡めて人気を集めました。
 しかし、なんと言ってもその魅力は、様々な軍用機を使って腕利き達が繰り広げる空戦だった。中にはかなりの距離からスパローを放ってすぐに反転したクセにちゃんと敵機を撃破してて、「そんなバカな」ってう場面もあるけれど、冷戦時代の政治的制約の多い現実とはちがって、読者としてはスカッとする戦闘シーンでありました。その人気は、テレビアニメや映画、家庭用デームなどもあって、専用の88_F8E.gifカラーやデカールが用意されたプラモデルも発売されていたほどです。
 それでは、キャラクター達の乗機を思い出してみましょう。主人公シンが愛機としたのは、まずF-8Eクルセーダー。超低空での対地攻撃中に突然金属製の巨大バリケードを張られたら、F-8Eは翼を瞬時に折りたたんでそのバリケードの間をすり抜けた!「それで何故失速しない!しかもそんな瞬時に折りたためるか~」。次にシンの愛機となったのはF-5EタイガーⅡ。安価で運動性能も良く西側諸国でベストセラーとなり、アメリカ空軍でもアグレッサー機として長く使われた機体ですよね。その後、司令官サキから「最も信頼する七人の兵士」に選ばれたシンは88_F-5E.gifイスラエル製の最新鋭機クフィルを乗機に与えられています。ミラージュⅢをコピーした機体だけど砂漠に良く似合う良い機体です。その後、サーブ35ドラケンにも乗ります。スウェーデン製のシブイ機体です。海外メーカーでこの機体のプラモデルを買って、そのバリの多さに驚いた事を思い出しました。そして次に乗機となったのは、当時まだアメリカ空軍でもプロトタイプしか無かったF-20タイガーシャーク。私もこのマンガで見て初めて知った機体でした。結局、F-16ファイティングファルコンの市場を崩せずに量産されなかったけど、魅力的な戦闘機です。そして最後の機種となったのがこれもまたアメリカ空軍製の前進翼実験機グラマンX-29。F-20もそうだが、世界に3機しか存在しない試作機なのに仕入れて来れるとは、恐るべし武器商人のマッコイおじさん。
 主人公シンの周りには、沢山の個性的な傭兵パイロットが居ました。元アメリカ海軍パイロットのミッキー、乗機はもちろんF-14Aトムキャット。このF-14Aはイラン空軍への輸出用の機体をイスラム革命のどさくさに調達してきたという時事ネタにもなっています。エリア88の司令官でアスラン王子でもあるサキはクフィルを中心に、ロックウェルB-1やF-15Aイーグルにも乗りました。最年少の黒人パイロットのキムはハリアーGrⅠ、紅一点のセラはA-4スカイホークだけでなくF-104スターファイターにも乗ってました。対地攻撃が得意のグレッグはA-4スカイホークの後に乗ったAー10サンダーボルトⅡのイメージが強いです。南ベトナム空軍出身のグエンはF-105Bサンダーチーフ。イギリス空軍出身のライウンデルはバッカニア、エリア88古株のモーリスはなんとレシプロのT-6テキサン、脱走兵殺しの3人組みはBACライトニング。武器商人マッコイはC-130ハーキュリーズで物資を良く運んで来ていました。
 一話程度でちょっとしか出てこなかったけど、F-111アドバークやF-100スーパーセイバー、RA-5Cビジランティや、フランス空軍のジャギュアも印象に残っている機体です。あと、当時一番メジャーであったF-4ファントムⅡは、何故か「その他大勢」とでしか登場してませんでした。エリア88と同時期に他誌で連載していた「ファントム無頼」では空自のF-4EJファントムⅡが一貫して主人公の乗機でした。そうそう、A-6イントルーダやA-7コルセアⅡなんかはA-4スカイホークとともに初期のエリア88基地によく脇役として描かれていました。
 また、敵であった反政府軍の機体はやられ役ですが88_MiG-17PFU.gif、MiG-17フレスコ、MiG-21PFMフィッシュベッド、MiG-27フロッガーD、Yak-38フォージャーと主にソビエト機が多かったです。MiG-17フレスコは私好みの機体でして、K-5空対空ミサイルを搭載したMiG-17PFUも登場しているのを確認出来ます。また、Yak-38フォージャーは、MiGばかり目立っていた当時のソビエト戦闘機の中で、とてもインパクトのあった機体でした。あと敵側にはフランス製のミラージュⅢも少し登場しています。そしてアメリカ海軍機のF/A-18も何故か良く敵側として出てきました。砂漠で自在に砂へ潜れる地上空母なんてのもありました。
 懐かしいなあ、TUTAYAでDVD版を探してこようかな。
 

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 今回は、WWⅡ当時において前回までに紹介した以外の水上戦闘機開発にスポットをあてます。
 まずは変り種のブラックバーンB.44です。飛行中の姿を見ると水上機というよりも飛行艇に見えます。この機種はイギリス航空省の要求仕様N.2/44という単座飛行艇戦闘機を求める要求に、ブラックバーン社が応じて設計開発したものです。1104001.jpg横顔図を見たら判るように単フロートが稼動式となっており、飛行時には機体ボディ腹部に合体収納されます。両翼に位置する小さな補助フロートも前方に折り曲がって主翼と一体化されます。これらのフロートの稼動は油圧式を採用していました。水冷H型24気筒のネイピア製セイバーエンジン(2,000馬力)を搭載して二重反転プロペラも採用。武装は20mm機関砲4門を搭載予定。空力に優れたフォルムで、エンジンや武装も当時としては強力なものを採用しています。
 この引込みフロートの方式、ブラックバーン社ではブラックバーンB.20と呼ばれる双発の試作哨戒飛行艇を1939年頃に手がけた事もある(正式採用はされていません)もので、今回はその稼動フロートの2回目のチャレンジで社運をかけたものでありまた。しかしブラックバーンB.44はテスト飛行で飛行中に深刻なコントロール不足に陥る特性が発覚し開発が暗礁に乗り上げます。また、搭載するセイバーエンジンの供給不足と合い重なってあえなく開発中止。飛ばすと危なかしくてしょうが無い機体に、最新鋭のエンジンは勿体無くて渡せないって感じです。

 ちょいと脱線しますが、この水冷H型24気筒のネイピア製セイバーエンジンは、ホーカー・タイフーン戦闘攻撃機に重点供給されました。しかしこのタイフーンだって初期量産機は急降下からの引き起こし時に尾部が折れやすいことが判明した危険な機種でありました。

 そして最後に登場はサンダース・ローSR.A/1です。帝国日本海軍の二式水上戦闘機の成功に着想したサンダース・ロー社は、飛行艇タイプSRA1.jpgであればフロートタイプと違って走波性も高く、新機軸なジェットエンジンを搭載すれば、ものすごい水上戦闘機が実現すると発想します。
 さっそくイギリス航空省にその机上案を持ちかけ、要求仕様E.6/44の発行を獲得します。1944年5月に試作機3機の開発契約を取り付けさっそく机上案を具体化すべく設計開発を進めましたが、いかんせん当時のジェットエンジンが、たかが飛行艇のプロトタイプにすんなり提供される訳が無く、試作1号が完成したのは1947年。WWⅡは1945年に終戦してしまっていて、飛行艇型戦闘機なんて要らないと判断されるのは当然の事で、やはり開発中止となりました。合計3機完成していた試作機は1951年までテスト飛行されていましたが、コクピットが狭く飛行中の視界確保にも難渋し、飛行性能も思わしくなかったらしく、テスト中の事故で2機が全壊しています。

 ちなみにWWⅡが終戦してかなりの年月を経た1950年初頭(設計は1948年から開始されていた)には、アメリカ海軍でXF2Yシーダートと名づけられたジェット水上戦闘機が現れ、試作機が音速突破しています。しかしテスト飛行と改修を重ねた結果、飛行性能を良好にする機体形状と、水上機として要求される機体形状とは両立し得ないと判断されて開発中止となり、現在に至るまでの最後の水上戦闘機種となっています。


 

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 今回はWWⅡ当時における日本帝国海軍以外での水上戦闘機の話題です。
 まずは、アメリカ海軍のF4Fワイルドキャットの水上戦闘機化です。日本軍の二式水上戦闘機が島嶼争いで有用だと感じたアメリカ海軍は、1942年F4F-3_WildcatFish.jpgに当時の主力艦上戦闘機であったF3Fワイルドキャットの水上機改造を計画します。1943年2月に完成した試作機はエド社にて改造されたもので、非公式社内呼称はF-4F-3Sワイルドキャットフィッシュ。双フロート式が採用されておりそのフロートの後方には補助舵が装備されていて、水平尾翼にも縦型の補助尾翼が装備されてました。胴体最後方の下部にも尾翼フィンが追加されており、飛行時の方向安定性確保に苦労した事が表れています。もちろん飛行性能はオリジナルのF4Fワイルドキャットと比べるまでもありませんでした。1943年の後半ともなると、太平洋戦線はアメリカ軍の絶対的優位な状況になっており、また必要であればすぐに現地飛行場を確保出来る工業力を保有しているし、小型護衛空母なら毎月どんどん就役してくる状況となった為、わざわざ性能の劣った水上戦闘機を使用せずとも良いと結論されて、F-4F-3Sは2機の試作のみで量産されませんでした。
 
 そしてイギリスでは名機スピットファイアを用いて水上戦闘機開発を少なくとも3度試みています。
 ドイツ軍がフランス侵攻とともに、デンマーク・ノルウェー侵攻を始めた頃、ノルウェーのフィヨルド内で使用するのを主目的とした水上機戦闘機の必要性が出てきました。イギリス航空省は安易に飛行場を建設出来ないノルウェー沿岸で水上戦闘機を使おうとしたのです。
 で水上機化のベースは、新型機なのに性能悪く余剰していたブラックバーン・ロックにフロートをくっ付けてノルウェーへ送ろうと思いついたのですが、冷静に考えると 「駄作機にフロートつけても駄作度が増すだけで戦力になるはずが無い」 と気付いたようで、当時の超最新鋭スピットファイアーMkⅢをベースに用いる計画に変更。その開発計画を実行するにあたり、既に量産ベースに乗っていたスピットファイアMkⅠSpitfiretype342.jpgで実験する事になりした。
 こうして最初に具体化されたタイプ342と呼ばれるスピットファイアMkⅠの水上機型が実験機として1機完成し1940年に飛行テストを受けましたが、もたもた実験しているうちに、ノルウェーはドイツ軍に占領化されてしまい、イギリス本国自体がやばくなって来たので 「もう水上戦闘機なんて要らない」 って事になって、スピットファイアーMkⅢの水上機型(タイプ344)は完成するまでも無く開発中止。1機が完成していたタイプ342は通常の陸上型に戻されています。
 数年後の1942年に再びイギリス航空省はスピットファイアの水上機型を求めます。エーゲ海南東方面でのドイツ軍空輸作戦を阻止するために水上機戦闘機が必要となったのです。ベースとなったのSpitfireType355.jpgはスピットファイアMkⅤでやはり当時の最新鋭バージョンを選択しました。今回も双フロート式でしたががっしりとした大きな一枚板で双フロートを連結させ、垂直尾翼を拡大、さらに胴体最後部下面にフィンを追加装備した形で4翔プロペラと熱帯用キャブレターインテイクも採用されました。この機種はタイプ355と呼ばれ1943年にようやく3機が揃いましたが、その頃のエーゲ海南東方面の制空権は完全にドイツ軍のものとなっており、活躍の場を失ったタイプ355はエジプトのグレートビター湖で訓練飛行しただけで実線に出ることなく生涯を終えています。
 懲りないイギリス航空省は、1944年にまたスピットファイアの水上戦闘機化を計画します。ヨーロッパ戦線の反撃目星が付きそうなので、ぼちぼち東南アジアに航空隊を送り込んで本格的に対日戦しようかと考えたのがその原因です。今回もバリバリの最新鋭であるスピットファイアMkⅨをベースに双フロート式の同じような尾翼改造した実験機を製造しまずまずのテスト飛行結果を得てタイプ385と呼ばれました。でもテスト飛行だけでその開発はそのまま放置になってます。結果的にイギリスの戦闘機開発は、スピットファイアのグリフォンエンジン化、シーファイアの運用性向上、テンペストの開発に力を注いでますから、水上機戦闘機開発の放置は正解でした。
 
 あちゃ~、ワイルドキャットとスピットファイアの水上戦闘機化だけでこんなに文章が長くなってしまった。次回コラムは、その他の水上戦闘機種って事で続きを書くとします。
 
 
 

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