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 滑走路を作らずとも砂浜沿いの海に係留出来て、離水したあとの飛行性能は陸上型戦闘機と変わらぬ空戦性能を持つ。そんな便利なカテゴリーが水上戦闘機。しかし、陸上戦闘機の車輪に引込脚が導入され普及すると、フロートが付いている水上機は空力的不利から逃れられない。そんな状況下のWWⅡ当時、実際にある程度量産して上で実線配備されたのは、日本帝国海軍の二式水上戦闘機(A6M2-N)と強風(N1K1)だけでありました。滑走路建設の重機を持たずに島嶼争奪戦を行なわなけれいけない日本にとって、非常に欲したカテゴリーでした。

 二式水上戦闘機(A6M2-N)は、ゼロ戦22型(A6M2)をベースとして単フロートをくっ付けた急増機体です。急増したきっかけは本格的な水上戦闘機として開発していた15試水上戦闘機(後々の強風)の完成が遅れに遅A6M2-N.jpgれていたか らです。で、二式水上戦闘機(A6M2-N)は、ゼロ戦22型(A6M2)の本家である三菱が忙しかったので中島飛行機で開発・ 製造されて327機の生産数。中島飛行機でもゼロ戦22型(A6M2)の生産を行っていたので無理なく二式水上戦闘機(A6M2-N)が完成しています。連合軍が名づけたニックネームはRufe(ルーフェ)。
 当時最強と言っても過言の無いゼロ戦22型(A6M2)がベースですが、重くて(約200kg増)しかも空気抵抗があるフロートが付いてるので、敵の主力戦闘機と正面きってドッグファイト出来る程の戦闘能力は無いです。しかも主翼に装備されている20mm機関砲も本機に継承されていましたし、爆撃機や偵察機相手の迎撃くらいはそつなくこなせています。現にWWⅡ初頭では、千島列島~アリューシャン列島にかけての北方戦線や、マーシャル諸島~ソロモン諸島にかけての南方諸島で、陸上基地不要の戦闘機隊として最前線で防空・護衛任務に活躍していますし、やむなく交戦したF4Fワイルドキャットを見事に撃墜している記録もあります。ガダルカナル争奪戦の頃にはアメリカの物量に戦況自体が圧されてきた上に敵戦闘機の性能向上もあり、活躍の場を失ってきて1943年に前線から退役しています。

 1942年にやっと試作機の初飛行がかなった本格派の水上戦闘機が川西航空機製の強風(N1K1)です。空冷14気筒 の火星一三型エンジン(1,460馬力)に単フロートを装備し最大速488km/h、高度4,000mまでの上昇がN1K1.jpg4分11 秒という水上戦闘機としては抜群の性能を有していました。固定武装は二式水上戦闘機と同じで7.7mm機 銃2丁と20mm機関砲2門ですが、30kgまでの爆弾を2個懸架出来ました。
 しかしそんな高性能な機体が量産可能になったのは1943年迄ずれ込んでしまいました。もはや水上戦闘機が活躍すべき時期を逸しており総生産数は97機のみとなっています。少数ながらアンボン島やペナン等のインドネシア方面に実線配備された機体は、B-24リベレータやB-29の撃墜を記録しています。しかも、そのような本格的な爆撃機相手には、時限式30kg爆弾を敵機上空で投下して撃墜する戦法を取っていたようですから驚きです。
 このように高いポテンシャルを持った強風(N1K1)の設計は、陸上使用の局地戦闘機として改修される事となります。フロートが付いててこんな性能良いのだったら、フロート取ったらものすごくなるとい う安直さです。しかしその改修設計が紫電(N1K1-J)、および紫電改(N1K2-J)を産み出して一応の成功となっています。両機の特徴でもある空戦フラップについても、既に強風(N1K1)で実装テストが行われていますし、試作1号機は二重反転プロペラのテストもしており、川西航空機 がこの水上戦闘機に注いだ技術は並々ならぬものであった事が窺えます。

 日本の2機種だけで文章が長くなってしまったので、その他の国については次回コラムに回す事にし ます。
 



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 当たり前の話ですがどんな名機であっても年月を経て最終的にはスクラップとなります。運が良ければ博物館で丁重に保管されたりしますが、戦闘で破損せず無傷であっても躯体の耐用年数がありますし、優秀な後継機種が出来て交代なんて事になります。で、今回のテーマはスクラップの話ではありません。スクラップするまでも損耗していないが、本来の任務機としては第一線から引退させないといけない場合の話です。WWⅡ当時の軍用機は進化が早かった期間ですから、メイン任務から外れた機種なのに沢山作りすぎて結構余っちゃったていうケース。また、実戦配備当初に駄作だった事が発覚して既に作ってしまったとか、設計段階で早々に量産発注して完成したら駄作機だったとかってのもあります(特にイギリス機がこのパターン多い)。
 ではWWⅡ主要参戦国は、そういう軍用機をどうしていたかっていうと、
 ① 「同盟国に買って貰う」が一番ベストです。「世界の兵器工場」を自負していた米国なんて、イギリスを初めとする英連邦諸国やソ連、南アメリカ諸国などにうまく余剰機種を販売して儲けたりしています。ソ連へ販売したP-39エアラコブラP39NAiracobra6.jpgや、フィンランドへのB-239(F2Fバッファローの輸出型)なんて、なまじっかそっちの国で大活躍とかしちゃって感謝された成功例もあります。
 ② 「後方支援的な輸送機や哨戒機に改造して使う」。中大型爆撃機なんかは輸送機に改造出来易いです。
 ③ 「練習機に格下げする」。戦闘機の引退後はこのケースが多かったですが、操縦性の素直な機体が望まれます。大中型機であっても無線練習や銃座射撃訓練に使用する機上練習機に転向させるってのもこのケースでしょう。
 ④ 「連絡機・気象観測機に使う」。複座以上の機種で後続距離が比較的長いのであれば転向出来ます。離着陸が短距離で済む機種なら打ってつけです。
 ②のケースが各国で行なわれたのは容易に想像が付きます、③のケースは結構機種が限定されますし、練習機として専門に開発された機体も存在するのであまり数が要るものではありませんが、フィンランドやルーマニアなど空軍力が未成熟な国ではこのケースが多いものでした。④のケースもそんなに数が要るもんじゃありません。
 そして今回の本題、⑤ 「標的曳航機に改造して使い切る」。⑥ 「その他の特殊な用途に使う」。のケースについては色々と具体例をあげてニンマリしましょう。
 まずは、先に⑥ 「その他の特殊な用途に使う」 の具体例を挙げていきます。以前のコラムでも書きましたが、ドイツの双発爆撃機トリオの余剰機体は、ミステル飛行爆弾の母機に使われたりしています。またHe111なんて2機をくっ付けてHe111Zという巨大グライダーを曳航する機体に改造されてもいます。日本では悲しいかな終戦末期に余っていた二線級機体は武装等重いものを降ろして片道燃料だけ積んだ特攻仕様なんかに改造しちゃっています。この時に搭載する爆弾なんてワイヤーでぐるぐる巻きに胴体腹部に巻きつけただけのケースもありました。一式陸上攻撃機はロケット機桜花を腹部にくっ付けて戦闘地域まで曳航しています。
 イタリアは連合軍に降伏した時点で上層部から何の指示も受けられRoc.jpgずに連合軍やドイツ軍に接収された余剰機体がたくさんありました。SM.85は地中海気候にも関わらず余剰機体を露天放置していたら風化しちゃいました。英海軍の艦上戦闘機ブラックバーン・ロックは単発機でありながら後方動力銃座を搭載したが為に重くて艦上戦闘機としてすぐに引退させられた機種ですが、陸上基地に放置して二次利用先を相談しているうちに、その基地が空襲を受けて露天係止していたブラックバーン・ロックが離陸せずに動力銃座を使って実際に何機かのドイツ機を撃墜したって話もあります。また、フェアリー・ヘンドンという機体は15機を完成させたのだが飛行そのものが危なっかしくて、無線訓練や作業用訓練として「飛行させてはいけない練習機」に任命されたりしています。
 ⑤ 「標的曳航機として改造して使い切る」 もFaireyBattle2.gif各国で行なわれましたが普通はそんなに数が必要なものではありません。だがしかし大変、イギリスはこの標的曳航機に格下げされた機種(標的曳航機としてしか使い道が無かった機種)が多いのってなんの。当時イギリスは英連邦宗主国であるのに、余剰機種を半分無理やりに売りつけられる国があったはずなのに断固拒否されたのでしょうか? やたら標的曳航機になった機種が多い。実際にある程度の数が標的曳航機になった機種は、ウエストランド・ライサンダー、ブラックバーン・ボウタ、ブラックバーン・スキュア、ボールトン・ポール・デファイアント、フェアリー・バトル、ホーカー・ヘンリーです。デファイアントにtargettug.gif至っては200機を越える機数が標的曳航機になっています。しかもそれでも足らなかったのか、イギリスはなんと同時期にアームストロング・ホイットワース・アルベマールや、マイルズ・マーチネットという標的曳航専用機まで量産しっちゃっている(2機種だけでも約2,300機)から不思議です。標的曳航機だけでパレードが出来そうです。
 ちなみに現在では、標的を曳航しなくても標的自体で飛行できる無人の無線標的が使われてます。腕の良かった標的曳航機パイロットは無線標的機操作員の教官にでもなっているのでしょうか?
 

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 永世中立国として有名なスイスは、もちろんWWⅡ当時も中立でしたがかなり危険な状況でした。地理的位置に見ても国境が全て陸続きで、北隣はナチス政権化のドイツ、東側もそのドイツに併合されていたオーストリア、南はムッソリーニ政権化のイタリア、西側だけはフランスで安心出来るかと思いきや直ぐにドイツ占領化となっています。  ドイツ軍がいつ攻め込んで来てもおかしく無い状況で、そんな中で中立を保つには、「ドイツが攻めてきたら焦土作戦するぞ~」、 「まず国内のトンネルや鉄道を直ちに破壊するぞ~」、「うちを占領しても益は無いぞ~」 と半ばやっけぱちであるが、実際にそんな内容を宣言してドイツ軍の侵攻を踏み止まらせています。もちろん中立と言っても非武装ではなく、国力の許す限りの防衛軍を編成していましたし、ユダヤ難民に冷淡な態度を取ってナチスドイツに媚びるような事も行っていました。
 そんな状況下でのスイス空軍は、1907年のハーグ条約で定められた国際法上の「中立義務」を果たすため、領空侵犯する航空機があれば、枢軸国側だけでなく連合軍側であろうとも、強制着陸を強いてパイロットを保護・抑留したり、実際に迎撃発砲しています。公式記録ではスイス国内に198機の外国航空機着陸と、6,501回の領空侵犯があったとされており、墜落数は対空砲の射撃も含めて56機となっています。「ドイツ夜間防空戦 - 夜戦エースの回想」 という著書の作者でありドイツ空軍のエースパイロットでもあったウィリヘルム・ヨーネンも、Bf110G夜間戦闘機で深夜に機位を見失ってスイスに領空侵犯してしまい強制着陸させられた上に抑留されています。
 当時のスイス空軍が保有した主な戦闘機は2系統ありました。そのひとつがドイツ製メッサーシュミットBF109シリーズです。Bf109D-1、Bf109E-3を戦前に少数購入したのを皮切りに、Bf109G-6に至ってはライセンス生産させて国産化してています。ところが国産型は完成度が低く使い物にならなかったらしいです。
 そしてもうひとつの戦闘機系統が、今回主役のフランス製モランソルニエMS.406系列です。まず1938年からモランソルニエMS.406Hの輸入に成功しています。その直後からモランソルニエMS.406のランセンス権を取得しD-3800-MS406C-1.jpgたスイスは、直ちに国産化を開始し、一番目に登場したライセンス型がD-3800と呼ばれるものでした。この機体はオリジナルのMS.406から、主翼のバルジ部分を平面に改良したり、不評であったベルト式7.5mm機銃をドラム式に変更する等を行っていますが、エンジンはイスパノスイザ12Y31(860馬力)のままで見た目も性能もオリジナルMS.406と変わらぬものでしたが、スイス国営製作所(EKW)等で76機製造された機種となっています。
 1940年には非力であったエンジンをイスパノスイザHS-51-12Y(1,060馬力)に強化したD.3801を配備。このイスパノスイザHS-12Y-51はスーパーチャージャー技術が導入されており、D-3801.jpgエンジン自体も国産ライセンスで製造していますが信頼性の高い製品にするのに1944年までかかっています。戦後の就役も合わせて224機が製造されています。
 その後も改良が続けられ1944年秋に試作機を飛行させたのがD.3802。この機種は同じ水冷式ながらザウアーYS-2と呼ばれる異形の新型D-3802.jpg エンジン(1,250馬力)を搭載し、最高速630km/hを発揮させ、いくつかの欠点を有しながらも12機が実戦部隊に配置されています。横顔図を見たとおり、別系統のエンジンを搭載した事もあり、そのフォルムがもはやオリジナルのMS.406とは見た目が別機になっています。コクピット周辺あたりなんかはBf109って感じがします。
 最後の改良版となったのがD.3803。エンジンをザウアーYS-3(1,500馬力)に換装してさらにパワーアップされており、バブルキャノピーを採用した上、固定武装に3門の20mm機関砲を装備し、最高速680kmをたたき出したということですので、かなり洗練されたフォルムであったと判断できます。200kgまでの爆弾やロケット弾も武装可能でした。しかしこの機種は、1945年に入り米国からP-51Dムスタングが入手可能となった際、まだまだ試作段階を脱していなかった為、量産中止となっています。D.3603のバブルキャノピーとなっている明瞭な写真や画像を探したのですが見つからなかったです、白黒写真付でその議論をしている サイト はあります。バブルキャノピーは設計段階で1台だけ存在した程度で、D.3002と同じようにBf109に似たキャノピーであった可能性が高いです。
 



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 第二次世界大戦時、ドイツには軍事に貢献した優れた博士がたくさん輩出されています。名前を挙げるだけでも、前章のリヒャルト・フォークト、ロケット技術の先駆者であるヴェルナー・フォン・ブラウン、大気圏爆撃を研究したオイゲン・ゼンガー、ワルター機関を開発したヘルムート・ワルター、フォッケウルフ社で活躍したクルト・タンク、ゴーダ社で全尾翼機を現実化させようとしたホルテン兄弟。アインシュタインも元々はドイツ人であった。Me163B_p2.gif
 そんな中、優れた航空技術でドイツ空軍をささえたドイツ航空業界において、ひときわ異彩を放った博士が居た。それがアレクサンダー・マルティン・リピッシュである。流体力学の先駆者的存在で、無尾翼・デルタ翼の追求を行ない、ロケット迎撃機のMe163コメートを設計した事で有名。
 1894年にミュンヘンで生まれたリピッシュは、第一次世界大戦時に空中撮影員・観測員として従軍し航空機に目覚め、退役後にツェッペリン社にてグライダー研究機関の一員となる。ドイツ滑空機研究所として再編されたリッピッシュは、この頃から無尾翼機に興味を持ち、デルタⅠ~Ⅴ、DFS39、DFS40と次々とデルタ翼グライダーを開発。また、世界で初めてロケット動力で飛行したエンテ・カモをも設計した。
 そしてリピッシュはドイツ航空省の指示で1939年前半、メッサーシュミット社へ派遣され、ロケットエンジン搭載の高速戦闘機としてMe163コメートを開発した。この機体は世界初の実用化された無尾翼デルタ機で、飛行時間がわずか8分ながら一気に時速960km/hに達するというバケモノ機であった。しかしこのMe163機体は、危険な燃料(人を溶解する混合液体)を扱わなければならず、ソリLippischP13a.gifを使った降着も難しく、そして何よりも航続力が決定的に不足していた為、後世、実用兵器としては失敗策であったと判断されている。Me163コメートが実戦配備される中、ウィリー・メッサーシュミット博士との間に摩擦が絶えなかったリピッシュはウィーン航空研究所に移籍し、デルタ翼機が超音速飛行に適している事を証明する為、今度はデルタ翼超音速戦闘機リピッシュ P.13aの開発を開始するが、滑空試験機を製作している段階でドイツ敗戦を迎えていまう事となりました。
 このリピッシュP.13a、機体は前縁60度、翼厚比16.6%の分厚いデルタ翼で、中央先端に突出した空気取入口を設けたラムズジェットを搭載し、コクピットはボディと一体化した垂直尾翼に位置していた。また石炭微粉末を燃料としていた迎撃機であった。最高速度はなんと1,650km/hだから音速の壁を軽くぶっちぎっている(あくまで計画です)。
 しかしリピッシュの流体力学の追求は止まりませんでした。ペーパークリップ計画と称されるドイツ技術者連行によって米国へ連れて来られたリピッシュは、数々のデルタ翼研究の提唱を行なう事になった。特にリピッシュは米国コンベア社とコンビを組みXF-92を試作した経験から、、F-102 デルタダガー、F-106 デルタダート、B-58ハスラーの設計に多大な貢献をした人物となった。また1950年よりコリンズ社にて、地面効果翼機の研究を行ない、その結果として、独創的な垂直離着陸機や空中翼船の設計を先駆けたが、病気が原因で西ドイツに移住し1976年に没した。
 彼は空中撮影員を経験したあと、航空機の速度の魅力に取り付かれた人物といってよく、優れた頭脳と頑固な性格、素っ頓狂な日常の言動で、いわゆる変人博士の代表的なイメージのままであったらしい。
 
 

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 第二次世界大戦時にドイツのブローム・ウント・フォス(Blohm+Voss)社に在籍して活躍した航空設計技師である。彼の設計する航空機は、斬新な設計の多いドイツ機の中でも、左右非対称フォルムなどの斬新でユニークな軍用機を設計した人物として知られる。
 学生時代にエルンスト・ハインケルと出会い、第一次世界大戦時にはツェッペリン飛行船社で働けるようになり、クラウディス・ドルニエから航空設計技師となるべく教育も受けている。1922年に設計士として博士号の学位を受けると、翌1923年からドルニエ社の派遣技師として10年間、日本の川崎航空へ派遣されていた。1933年にドイツに戻った彼はブローム・ウント・フェス社へ迎え入れられ数々の名機・珍機を設計する事になる。Xv64465.jpg
 彼が主導した設計で最も有名なのは左右非対称構造の偵察機BV141。コクピットに360度視界を得るために胴体とコクピットを並べた独特のフォルムであったが、意外にも操縦安定性が高かったそうだ。また、BV138、VB220ヴィーキング、BV238などの飛行艇の設計においても多くの実用機を排出した。
 ドイツ敗戦直後、連合軍によって様々なドイツ試作プランが発見されたが、その中に、リヒャルト・フォークトの設計プラン機も何案も存在していた。よく知られるペーパープランは、翼端の両端にエンジンを配して三発機にしたP.170シリーズ。両翼端に尾翼を配したP.209~21。そして中でも驚きのプランは、P.202と名付けられた単葉可変翼機である。双発ジェットエンジンの胴体に、上翼式で一枚の主翼が装着されており、正面から見ると一般の爆撃機と変わらないフォルムであるが、その主翼は中心を基点に主翼全体が一方向に稼動する
du202.jpg
仕組みとなっており最大35度まで水平移動できるものあった。確かに可変翼であるが、「右側が後退翼35度の時、左は前進翼35度じゃないか~」、「翼端失速の宝石箱やん、まっすぐ飛ぶべるんかい」と突っ込みたくなるが、本プランはペーパー段階で実機は製作されていないので何とも言えない。どうやら、後退翼や前進翼での評価テストに使用する為のものであったらしいのだが、1979年にはアメリカのNASA航空宇宙局が同じような形状の単葉可変翼をもつAD-1という実験機で実際に飛行させているからP.202も飛んでても可笑しく無いプランだったようです。 
 リヒャルト・フォークト自身は、戦後、米空軍に請われ、アメリカへ移住しボーイング社では特に垂直離着陸機(VTOL)と水中翼船の設計に携わり、1979年にカリフォルニアにおいて84歳で死去している。
 

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