対空戦車とは、戦車や装甲車の車体を利用した機動性の高い対空銃砲を搭載した車両で、機動力の高い事から前線部隊や輸送部隊の防空に用いられた兵器である。第二次世界大戦では対空ミサイルの実用化が無かったため、それほど高い撃墜率を持っていなかったが制空権を失った陸上部隊にとって無くてはならない存在であった。相対的に装甲が薄く地上戦には向かない存在であるが、搭載銃砲の発射速度が速い為、しばしば地上戦闘でも実績を残している。
今回はその中でも、ドイツ軍のⅣ号戦車の車体を利用した対空戦車を紹介。
Sd.kfz.161/3メーベルワーゲン……37mm対空機関砲を1門をオープン稼動式砲塔に搭載したもの。
たった1門の対空砲ながら生産性が高く1943年3月から1年間に240両が生産され終戦までドイツ対空戦車の主力を勤めた。
Sd.kfz.161/4ヴィルエルヴィント……上記のメーベルワーゲンを補うため生産開始された4連装20mm対空砲を9角形砲塔に搭載したもの。ミリタリーファンにはおなじみの車両だが、4門の20mm機関砲を搭載するも射程・威力が物足りず、メーベルワーゲンよりも対空戦闘能力は劣っていた。対空戦闘時には砲塔内が狭く指揮観測官は砲塔外に立たなければいけないという滑稽な面も持っていた。生産に関しても84両でありそのほとんどがⅣ号戦車からの修理改造であった。
オストヴィント……メーベルワーゲンの火力不足を鑑みて、メーベルワーゲンから37mm対空機関砲1門をより強力な
ものに換装し、砲塔はヴィルエルヴィントと似たような6角砲塔となった。砲塔の派生形と合わせて43両が生産されている。
オストヴィントⅡ……オストヴィントの単装を縦型連装に強化する設計車両であったが実現せず。
Flakpanzerwagen604/4クーゲルブリッツ……Uボート21型に搭載予定であった密閉式砲塔を転用搭載した対空戦車。毎分650発の発射速度を持ったラインメタル社の30mm機関砲を2門搭載した強力なものであった。1944年4月から開発開始されたが、工場及び資材は戦況悪化の影響を受け完成したのは僅かに3両であった。
連合軍側においても、それぞれ既存の戦車や自走砲の車体を利用したものが実戦化されているが、何れにおいても第二次世界大戦時の対空戦車は、決定的な対空防御力を持つものではなく、実戦投入数も少なく、「威嚇力」「抑止力」の性格が強いものであった。
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イカルス(Ikarus)社で設計され、ロゴザルスキー(Rogozarski)社で製作されたユーゴラビア製の単座戦闘機。
木金混合構造の片持単葉翼、引込み脚が採用されている等、英国のハリケーンをかなり意識して設計されており外見もかなり似ています。1938年5月に原型機が初飛行し、ユーゴスラビア王立空軍に総計13機が引き渡されている。
木金混合構造の片持単葉翼、引込み脚が採用されている等、英国のハリケーンをかなり意識して設計されており外見もかなり似ています。1938年5月に原型機が初飛行し、ユーゴスラビア王立空軍に総計13機が引き渡されている。
1941年のユーゴスラビア王立空軍は、国産のIK-3、及びドイツ製、イタリア製、フランス製、イギリス製の軍用機を会わせて416機保有しており、同年9月から始まったドイツ軍のユーゴスラビア侵攻では、Bf109に護衛されたJu87やDo17の爆撃を抑える事は到底出来ず、貧弱な対空陣地も簡単に排除されて首都ベオグラードは12日間で陥落し、ユーゴスラビア王国は占領され枢軸国に分割占領されてしまいます。クロアチア地域のみドイツ傀儡としてクロアチア独立国が存続しますが、1943年にパルチザンの主導によるユーゴスラビア民主連邦、および1945年の正式なユーゴスラビア国家となるまで枢軸国占領下でありました。
Ik-3はドイツ軍のユーゴスラビア侵攻時、ドイツ空軍相手に果敢に迎撃戦に使用されますが13機のうち11機がドイツ軍に撃墜された記録が残っています。残った2機はドイツ軍による接収を恐れて破却されています。
スペックを見るとIK-3は、同時期のハリケーンMkⅡより少し優れている数値であり、プロペラ軸にモーターカノン式の20mm機関砲も標準装備されたナカナカのポテンシャルでしたが、経験豊かなドイツ空軍相手に絶望的な迎撃戦を展開せざる得なかった事は間違いありません。
第二次世界大戦当時、連合軍・枢軸軍とも女性パイロットは存在していました。まず、ソ連を除いた国で見てみると、各国で少数見られ、前線に出撃する訳でなくプロパガンダ的に冒険飛行(ドイツのハンナ・ライチェ等)や後方輸送飛行部隊のパイロットでした。尚、英国では早くから婦人部隊が補助航空部隊で活躍しており、前線基地への戦闘機搬送にも従事したようです。米国でも女性のみの飛行隊(空輸部隊WASP)が結成され後方支援の輸送を行なっていました。
ソ連では他国での扱いと違っていました。共産主義のタテマエは平等社会です。だから国家の為に戦争で戦うのも男女平等だ。と言うタテマエ(実際は兵士不足で女性でも戦場に立たせたかっただけ)で、陸海軍とも沢山の女性を最前戦に送っています。もちろん、ソ連空軍でも整備士、管制官、基地防衛隊などに従事させています。愛国心やドイツに対する敵愾心から自らパイロット志願して活躍したうら若き女性達もいて、中でも有名なのが戦後に「出撃!魔女飛行隊」(原題は「Night Witches」)という本にもなった飛行隊がありました。
ドイツ軍の電撃奇襲「バルバロッサ作戦」によって国土にどんどん攻めこれ、戦力を激しく消耗したソ連空軍は志願兵を募った所、民間飛行クラブ等で飛行訓練を積んだ女性達も複数応募してきました。最初は断っていたのですが、1941年末より戦局の深刻な状態が明らかとなり、高名な女性飛行家のマリーナ・ラスコーヴァがスターリンの許可を得て、民間飛行士や飛行クラブから選抜した若き女性達約1,200人を女性だけの3つの飛行連隊(586女子戦闘機連隊、587女子爆撃機連隊、588夜間爆撃機連隊)を創設し、ラスコヴァ自らが司令として着任。この3つの連隊はパイロットだけで無く、整備士から管制官まで400名の要員全てが女性で編成されていました。そしてこの女性飛行隊が後にドイツから図らずも“魔女飛行隊”と恐れられる存在になったのです。
587女子戦闘機連隊は、主にYak-1を運用し、スタリーングラード攻防戦で最前線の激しい制空権争いを行なう程の飛行連隊でした。中でも、168回の空戦に出撃し敵機を公式スコアで12機撃墜、3回目の被弾墜落にて22歳の若さで戦死したリディア・リトヴァクがもっとも高名。彼女の愛機Yak-1の胴体には白い薔薇のマークが描かれていて、ドイツ軍パイロットから「スターリングラードの白い薔薇」と恐れられ、数々のエピソードが現在でも伝わっています(戦後にスイスで生存していてTVに写っていた説もありました)し、レーニン勲章、赤旗勲章、一等及び二等祖国戦争勲章、赤星勲章を受章しています。おまけにかなりの美人です。他にも、リディアと双肩の腕前で11機撃墜記録のエカテリーナ・ブダノワ、当時中隊長のオルガ・ヤムシュコワ、女性としての敵機撃墜第1号となったヴァレーリヤ・ホミヤコワなど、活躍した戦闘機パイロットが揃って居ました。
587女子爆撃連隊は、当初はSu-1攻撃機を乗機としていましたが直ぐにPe-2襲撃機に転換し昼間時の襲撃任務を担当し、マリーナ・ラスコーヴァ自身が連隊を率いて激しい対空砲火を受けながらドイツ陸軍部隊の最前線に爆撃を敢行し続けました。ラスコーヴァは、1943年サラートフ近郊で戦死し、最終任官は少佐でした。
588女子夜間爆撃連隊は、練習機として開発されたポリカルレフPo-2という最大速度150km/hの複葉機で編成され、その時代遅れな2名乗り旧式機でドイツ軍前線拠点を夜間奇襲攻撃する任務を担当しました。この爆撃任務は、搭載爆弾もも小さくイタズラ的に繰り返し行なわれ、爆撃威力よりも「ドイツ軍を眠らせない」という効果は相当なもので、彼女達はエンジンを止めて滑空で低空進入する戦法を編み出し多大なる戦果を挙げてゆきます。連隊司令のイエヴドキア・ベルシャンスカヤ、840回の夜間出撃をこなし戦争を生き抜いてレーニン勲章と赤旗勲章、ソ連英雄章を獲得したナターリャ・ミャクリン。リディア・リトヴァクの大親友で「出撃!魔女飛行隊」のメイン主人公となるナディア・ポポヴァなどが配属され活躍しました。
魔女飛行隊以外にも前線で戦ったソ連女性パイロットは沢山居ます。中でもリディアに次いで有名なソ連の女性パイロットであったアンナ・エゴロア中尉。女性では扱いが難しいと評されていたIl-2シュトルモビク地上攻撃機に乗って277回の出撃をこなしドイツ地上軍から畏怖されていましたが、1944年8月に対空砲で撃墜されて戦死したのか、ドイツ軍の捕虜になったかは不明とされていましたが、ドイツ軍の捕虜収容所から1945年に開放された直後に、今度はソ連の内務人民委員部に逮捕されスパイ容疑の尋問にかけられた後に釈放されて、2009年までモクスワで存命でした。
リディア・リトヴァクと、アンナ・エロゴアは是非、ウィキペディアも見てください。そしてもっとソ連の女性パイロットを知りたいと思ったら、「出撃!魔女飛行隊」も是非読んで下さい。私が初めて手にしたのは高価な本だったのですが現在では再刊されて文庫版で中古品で入手できます。殺伐とした軍隊の中にあって恋物語もあったり、タフで愛すべき女性パイロットのノンフィクションな戦記物語となっています。
PS: この小説を図書館で借りてきました。この本を読むのは3度目なんですけど、新幹線など電車に長時間乗ることが多かったのでまた一気に読みきってしまいました。 やっぱ夢中に読んでしまうほど、良い本ですわ。
ソ連では他国での扱いと違っていました。共産主義のタテマエは平等社会です。だから国家の為に戦争で戦うのも男女平等だ。と言うタテマエ(実際は兵士不足で女性でも戦場に立たせたかっただけ)で、陸海軍とも沢山の女性を最前戦に送っています。もちろん、ソ連空軍でも整備士、管制官、基地防衛隊などに従事させています。愛国心やドイツに対する敵愾心から自らパイロット志願して活躍したうら若き女性達もいて、中でも有名なのが戦後に「出撃!魔女飛行隊」(原題は「Night Witches」)という本にもなった飛行隊がありました。
ドイツ軍の電撃奇襲「バルバロッサ作戦」によって国土にどんどん攻めこれ、戦力を激しく消耗したソ連空軍は志願兵を募った所、民間飛行クラブ等で飛行訓練を積んだ女性達も複数応募してきました。最初は断っていたのですが、1941年末より戦局の深刻な状態が明らかとなり、高名な女性飛行家のマリーナ・ラスコーヴァがスターリンの許可を得て、民間飛行士や飛行クラブから選抜した若き女性達約1,200人を女性だけの3つの飛行連隊(586女子戦闘機連隊、587女子爆撃機連隊、588夜間爆撃機連隊)を創設し、ラスコヴァ自らが司令として着任。この3つの連隊はパイロットだけで無く、整備士から管制官まで400名の要員全てが女性で編成されていました。そしてこの女性飛行隊が後にドイツから図らずも“魔女飛行隊”と恐れられる存在になったのです。
587女子戦闘機連隊は、主にYak-1を運用し、スタリーングラード攻防戦で最前線の激しい制空権争いを行なう程の飛行連隊でした。中でも、168回の空戦に出撃し敵機を公式スコアで12機撃墜、3回目の被弾墜落にて22歳の若さで戦死したリディア・リトヴァクがもっとも高名。彼女の愛機Yak-1の胴体には白い薔薇のマークが描かれていて、ドイツ軍パイロットから「スターリングラードの白い薔薇」と恐れられ、数々のエピソードが現在でも伝わっています(戦後にスイスで生存していてTVに写っていた説もありました)し、レーニン勲章、赤旗勲章、一等及び二等祖国戦争勲章、赤星勲章を受章しています。おまけにかなりの美人です。他にも、リディアと双肩の腕前で11機撃墜記録のエカテリーナ・ブダノワ、当時中隊長のオルガ・ヤムシュコワ、女性としての敵機撃墜第1号となったヴァレーリヤ・ホミヤコワなど、活躍した戦闘機パイロットが揃って居ました。
587女子爆撃連隊は、当初はSu-1攻撃機を乗機としていましたが直ぐにPe-2襲撃機に転換し昼間時の襲撃任務を担当し、マリーナ・ラスコーヴァ自身が連隊を率いて激しい対空砲火を受けながらドイツ陸軍部隊の最前線に爆撃を敢行し続けました。ラスコーヴァは、1943年サラートフ近郊で戦死し、最終任官は少佐でした。
588女子夜間爆撃連隊は、練習機として開発されたポリカルレフPo-2という最大速度150km/hの複葉機で編成され、その時代遅れな2名乗り旧式機でドイツ軍前線拠点を夜間奇襲攻撃する任務を担当しました。この爆撃任務は、搭載爆弾もも小さくイタズラ的に繰り返し行なわれ、爆撃威力よりも「ドイツ軍を眠らせない」という効果は相当なもので、彼女達はエンジンを止めて滑空で低空進入する戦法を編み出し多大なる戦果を挙げてゆきます。連隊司令のイエヴドキア・ベルシャンスカヤ、840回の夜間出撃をこなし戦争を生き抜いてレーニン勲章と赤旗勲章、ソ連英雄章を獲得したナターリャ・ミャクリン。リディア・リトヴァクの大親友で「出撃!魔女飛行隊」のメイン主人公となるナディア・ポポヴァなどが配属され活躍しました。
魔女飛行隊以外にも前線で戦ったソ連女性パイロットは沢山居ます。中でもリディアに次いで有名なソ連の女性パイロットであったアンナ・エゴロア中尉。女性では扱いが難しいと評されていたIl-2シュトルモビク地上攻撃機に乗って277回の出撃をこなしドイツ地上軍から畏怖されていましたが、1944年8月に対空砲で撃墜されて戦死したのか、ドイツ軍の捕虜になったかは不明とされていましたが、ドイツ軍の捕虜収容所から1945年に開放された直後に、今度はソ連の内務人民委員部に逮捕されスパイ容疑の尋問にかけられた後に釈放されて、2009年までモクスワで存命でした。
リディア・リトヴァクと、アンナ・エロゴアは是非、ウィキペディアも見てください。そしてもっとソ連の女性パイロットを知りたいと思ったら、「出撃!魔女飛行隊」も是非読んで下さい。私が初めて手にしたのは高価な本だったのですが現在では再刊されて文庫版で中古品で入手できます。殺伐とした軍隊の中にあって恋物語もあったり、タフで愛すべき女性パイロットのノンフィクションな戦記物語となっています。
PS: この小説を図書館で借りてきました。この本を読むのは3度目なんですけど、新幹線など電車に長時間乗ることが多かったのでまた一気に読みきってしまいました。 やっぱ夢中に読んでしまうほど、良い本ですわ。
パイロットであり、有名な作家でもあるアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ。もっとも有名な作品は「星の王子様」、児童図書ながら子供の心を失ってしまった大人に向けての示唆がふんだんにあふれている。そしてサン=テグジュペリ自身のパイロット経験を活かしたリアリズムあふれる作品となった「夜間飛行」。
サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていくという人生を送り、常に冒険飛行に憧れ実際に数々の冒険的飛行を行なっている。
スタジオジブリの宮崎駿氏は、彼の作品の愛読者として知られており、「紅の豚」や「ラピュタ」などの作品に出てくる飛行シーンは彼の影響を受けたと言われている。
フランスのリヨンで1900年に生まれたサン=テグジュペリは、19歳で海軍兵学校入試に失敗。やむなく兵服志願して飛行連隊に入隊し、軍人として飛行練習生になったのちは、ひたすらに大空の夢を見る。兵役除隊後は予備役の士官パイロット(少尉)となり民間航空業界で郵便飛行士に就く。1926年(26歳)から作家デビューし自己の経験に基づいた作品を発表。特に世界中の航空業界から良くも悪くも注目される存在となっている。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、フランス空軍に招集され、飛行教官を務める。前線部隊への転属を強く希望するが戦闘機部隊も爆撃機部隊も年齢(39歳)を理由に拒否。世界的に有名な作家を失いたくない国情もあったが能力的にも無理であったらしい。それでもコネを屈指して偵察隊に配属されている。多大な損害を出してパリを占領されたフランスがドイツ軍に降伏となると、彼はヴィシー政権に残る事を拒否してアメリカへ亡命。
ド・ゴールが、亡命先のイギリスで、対ドイツ徹底抗戦の「自由フランス軍」の結成を提唱すると、彼は亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。原隊であったⅡ/33偵察飛行隊への復帰を果たす。しかし、新鋭機に対する訓練飛行中に着陸事故を起こし飛行禁止処分を受けてしまう。それでもめげない彼はコネなどを使って必死に画策して1944年(44歳)に再びⅡ/33偵察部隊に復帰。コルシカ島に進出していたそのⅡ/33部隊にて、南フランス内部への強行偵察を画策し、ロッキードF-5B(P-38ライトニングのフランス版偵察機)に単機で出撃するが、地中海上空で行方不明となり帰還せず。
戦後も長らく地中海で行方不明とされていたが、1950年代に問題のロッキードF-5Bの残骸が地中海のマルセイユ沖の海底で地元ダイバーが発見。しかしサン=テグジュペリの墜落現場候補とは認識されずになったままであったが、1998年にトロール船がロッキードF-5B水没地近辺でサン=テグジュペリのブレスレット(住所が刻まれていた)を発見し、2000年5月に本格的に海底調査でマスメディアに取り上げられ世界中に知られる事となった。2008年には、当時メッサーシュミットBf109のパイロットであったホルスト・リッパート(当時軍曹)が、サン=テグジュペリのロッキードF-5Bを現地上空で撃墜した事を証言。リッパート自身はその証言の中、「長い間、あのロッキードF-5Bのパイロットがサン=テグジュペで無い事を願い続けていた」と、「夜間飛行」や「星の王子様」の愛読者だった心情を語っている。
サン=テグジュペリの生き方は飛行機に向かい、飛行機に挫折し、また飛行機に向かっていくという人生を送り、常に冒険飛行に憧れ実際に数々の冒険的飛行を行なっている。
スタジオジブリの宮崎駿氏は、彼の作品の愛読者として知られており、「紅の豚」や「ラピュタ」などの作品に出てくる飛行シーンは彼の影響を受けたと言われている。
フランスのリヨンで1900年に生まれたサン=テグジュペリは、19歳で海軍兵学校入試に失敗。やむなく兵服志願して飛行連隊に入隊し、軍人として飛行練習生になったのちは、ひたすらに大空の夢を見る。兵役除隊後は予備役の士官パイロット(少尉)となり民間航空業界で郵便飛行士に就く。1926年(26歳)から作家デビューし自己の経験に基づいた作品を発表。特に世界中の航空業界から良くも悪くも注目される存在となっている。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、フランス空軍に招集され、飛行教官を務める。前線部隊への転属を強く希望するが戦闘機部隊も爆撃機部隊も年齢(39歳)を理由に拒否。世界的に有名な作家を失いたくない国情もあったが能力的にも無理であったらしい。それでもコネを屈指して偵察隊に配属されている。多大な損害を出してパリを占領されたフランスがドイツ軍に降伏となると、彼はヴィシー政権に残る事を拒否してアメリカへ亡命。
ド・ゴールが、亡命先のイギリスで、対ドイツ徹底抗戦の「自由フランス軍」の結成を提唱すると、彼は亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ。原隊であったⅡ/33偵察飛行隊への復帰を果たす。しかし、新鋭機に対する訓練飛行中に着陸事故を起こし飛行禁止処分を受けてしまう。それでもめげない彼はコネなどを使って必死に画策して1944年(44歳)に再びⅡ/33偵察部隊に復帰。コルシカ島に進出していたそのⅡ/33部隊にて、南フランス内部への強行偵察を画策し、ロッキードF-5B(P-38ライトニングのフランス版偵察機)に単機で出撃するが、地中海上空で行方不明となり帰還せず。
戦後も長らく地中海で行方不明とされていたが、1950年代に問題のロッキードF-5Bの残骸が地中海のマルセイユ沖の海底で地元ダイバーが発見。しかしサン=テグジュペリの墜落現場候補とは認識されずになったままであったが、1998年にトロール船がロッキードF-5B水没地近辺でサン=テグジュペリのブレスレット(住所が刻まれていた)を発見し、2000年5月に本格的に海底調査でマスメディアに取り上げられ世界中に知られる事となった。2008年には、当時メッサーシュミットBf109のパイロットであったホルスト・リッパート(当時軍曹)が、サン=テグジュペリのロッキードF-5Bを現地上空で撃墜した事を証言。リッパート自身はその証言の中、「長い間、あのロッキードF-5Bのパイロットがサン=テグジュペで無い事を願い続けていた」と、「夜間飛行」や「星の王子様」の愛読者だった心情を語っている。
1940年3月6日に停戦となった冬戦争。しかしフィンランドはソ連軍の侵攻作戦を排除し独立を維持出来たものの、同月13日のモスクワ講和条約により、カレリア地方などソ連国境沿いの豊かな地を失った結果となり、領土を削られた恨みは晴れるものでは無かった。しかしフィンランドを取り巻く当時の状況は、傍観するしか出来なかかったイギリス・フランス、義勇兵を送り出したものの中立を維持し続けたスウェーデンや、イギリスからの救援部隊の通過を拒んだノルウェー、ソ連に組み込まれたバルト三国であり、しかもイギリス・フランスは今やドイツ相手に本格的な戦闘をしておりアテに出来ない状態であった。
こうしてドイツと密約に至る事となり、タテマエはノルウェーへの侵攻を行なうドイツ軍の国内駐留を認めるというものであったが、実際には、ソ連に対するドイツ軍の侵攻作戦(バルバロッサ作戦)に乗じてフィンランド軍も領土奪還を図るという軍事提携であった。ドイツ軍のバルバロッサ作戦(1941年6月22日)が始まると、フィンランドは当初は中立を宣言しながらも、同月26日にソ連へ宣戦布告してドイツ北方軍とともにカレリア地方へ攻撃をしかけてスターリングラードへ向けて進撃し1944年9月19日まで続けられる「継続戦争(Jatkosota)」が開始された。
冬戦争とうって変わって、枢軸軍の立場となったフィンランドは、ドイツ軍から兵器の供給を受け果敢にソ連軍と戦闘するがスターリングラードの戦い以降ドイツ軍が東部戦線で敗れるとソ連軍の大反抗が始まり、疲弊しきってしまったフィンランドは1944年9月19日にソ連から持ちかけられた講和を受け停戦となった。
フィンランド軍の流れは以上のような感じで結局はソ連の物量作戦に屈服してしまうのであるが、ことフィンランド空軍戦闘機部隊となると、序戦はバッファローで善戦し、ドイツから供給されたメッサーシュミットBf109Gが配備されるとその戦闘能力は強力なものとなり、ソ連軍Yak1/7/9/3シリーズ、LaGG-3、La-5などを相手に数多くのエースを輩出する大活躍を見せた。エイノ・イルマリ・ユーティライネン(94機)、ハンス・ウィンド(75機)、エイノ・ルッカーネン(56機)がエーストップ3である。
継続戦争が終結後、1944年9月~1945年4月の約半年間、フィンランドは、協定条件としてソ連から要求された「ドイツ軍の国内排除」のために、ラップランド戦争と呼ばれるドイツ軍を相手にした戦闘を行なっている。フィンランド国内のラップランド地方から組織的に撤退していくドイツ軍と戦闘となったもので、ここではBF109同士の空戦も行なわれているが、フィンランド爆撃隊がドイツ軍の組織的な対空砲火に大打撃を受け、それ以降、大規模な航空戦は発生しなかった。
尚、冬戦争以来、フィンランド空軍の国籍マークは「青い鍵十字」を使用していた。この青い鍵十字は、冬戦争勃発時に義勇軍として参加したカール・ローゼン卿が持ち込んだDC-2改造爆撃機に描かれていたのがきかっけで、ローゼン家で代々伝わっているマークだった。しかし、ナチスドイツを打ち倒した連合軍は、敗戦国となったフィンランド空軍に対して、ナチスをイメージするという理由で、青い鍵十字マークの使用を禁止して、以降フィンランド空軍は白地に青いラウンデルマークを使用するようになった。
こうしてドイツと密約に至る事となり、タテマエはノルウェーへの侵攻を行なうドイツ軍の国内駐留を認めるというものであったが、実際には、ソ連に対するドイツ軍の侵攻作戦(バルバロッサ作戦)に乗じてフィンランド軍も領土奪還を図るという軍事提携であった。ドイツ軍のバルバロッサ作戦(1941年6月22日)が始まると、フィンランドは当初は中立を宣言しながらも、同月26日にソ連へ宣戦布告してドイツ北方軍とともにカレリア地方へ攻撃をしかけてスターリングラードへ向けて進撃し1944年9月19日まで続けられる「継続戦争(Jatkosota)」が開始された。
冬戦争とうって変わって、枢軸軍の立場となったフィンランドは、ドイツ軍から兵器の供給を受け果敢にソ連軍と戦闘するがスターリングラードの戦い以降ドイツ軍が東部戦線で敗れるとソ連軍の大反抗が始まり、疲弊しきってしまったフィンランドは1944年9月19日にソ連から持ちかけられた講和を受け停戦となった。
フィンランド軍の流れは以上のような感じで結局はソ連の物量作戦に屈服してしまうのであるが、ことフィンランド空軍戦闘機部隊となると、序戦はバッファローで善戦し、ドイツから供給されたメッサーシュミットBf109Gが配備されるとその戦闘能力は強力なものとなり、ソ連軍Yak1/7/9/3シリーズ、LaGG-3、La-5などを相手に数多くのエースを輩出する大活躍を見せた。エイノ・イルマリ・ユーティライネン(94機)、ハンス・ウィンド(75機)、エイノ・ルッカーネン(56機)がエーストップ3である。
継続戦争が終結後、1944年9月~1945年4月の約半年間、フィンランドは、協定条件としてソ連から要求された「ドイツ軍の国内排除」のために、ラップランド戦争と呼ばれるドイツ軍を相手にした戦闘を行なっている。フィンランド国内のラップランド地方から組織的に撤退していくドイツ軍と戦闘となったもので、ここではBF109同士の空戦も行なわれているが、フィンランド爆撃隊がドイツ軍の組織的な対空砲火に大打撃を受け、それ以降、大規模な航空戦は発生しなかった。
尚、冬戦争以来、フィンランド空軍の国籍マークは「青い鍵十字」を使用していた。この青い鍵十字は、冬戦争勃発時に義勇軍として参加したカール・ローゼン卿が持ち込んだDC-2改造爆撃機に描かれていたのがきかっけで、ローゼン家で代々伝わっているマークだった。しかし、ナチスドイツを打ち倒した連合軍は、敗戦国となったフィンランド空軍に対して、ナチスをイメージするという理由で、青い鍵十字マークの使用を禁止して、以降フィンランド空軍は白地に青いラウンデルマークを使用するようになった。
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