今回は、WWⅡ当時において前回までに紹介した以外の水上戦闘機開発にスポットをあてます。
まずは変り種のブラックバーンB.44です。飛行中の姿を見ると水上機というよりも飛行艇に見えます。この機種はイギリス航空省の要求仕様N.2/44という単座飛行艇戦闘機を求める要求に、ブラックバーン社が応じて設計開発したものです。横顔図を見たら判るように単フロートが稼動式となっており、飛行時には機体ボディ腹部に合体収納されます。両翼に位置する小さな補助フロートも前方に折り曲がって主翼と一体化されます。これらのフロートの稼動は油圧式を採用していました。水冷H型24気筒のネイピア製セイバーエンジン(2,000馬力)を搭載して二重反転プロペラも採用。武装は20mm機関砲4門を搭載予定。空力に優れたフォルムで、エンジンや武装も当時としては強力なものを採用しています。
この引込みフロートの方式、ブラックバーン社ではブラックバーンB.20と呼ばれる双発の試作哨戒飛行艇を1939年頃に手がけた事もある(正式採用はされていません)もので、今回はその稼動フロートの2回目のチャレンジで社運をかけたものでありまた。しかしブラックバーンB.44はテスト飛行で飛行中に深刻なコントロール不足に陥る特性が発覚し開発が暗礁に乗り上げます。また、搭載するセイバーエンジンの供給不足と合い重なってあえなく開発中止。飛ばすと危なかしくてしょうが無い機体に、最新鋭のエンジンは勿体無くて渡せないって感じです。
ちょいと脱線しますが、この水冷H型24気筒のネイピア製セイバーエンジンは、ホーカー・タイフーン戦闘攻撃機に重点供給されました。しかしこのタイフーンだって初期量産機は急降下からの引き起こし時に尾部が折れやすいことが判明した危険な機種でありました。
そして最後に登場はサンダース・ローSR.A/1です。帝国日本海軍の二式水上戦闘機の成功に着想したサンダース・ロー社は、飛行艇タイプであればフロートタイプと違って走波性も高く、新機軸なジェットエンジンを搭載すれば、ものすごい水上戦闘機が実現すると発想します。
さっそくイギリス航空省にその机上案を持ちかけ、要求仕様E.6/44の発行を獲得します。1944年5月に試作機3機の開発契約を取り付けさっそく机上案を具体化すべく設計開発を進めましたが、いかんせん当時のジェットエンジンが、たかが飛行艇のプロトタイプにすんなり提供される訳が無く、試作1号が完成したのは1947年。WWⅡは1945年に終戦してしまっていて、飛行艇型戦闘機なんて要らないと判断されるのは当然の事で、やはり開発中止となりました。合計3機完成していた試作機は1951年までテスト飛行されていましたが、コクピットが狭く飛行中の視界確保にも難渋し、飛行性能も思わしくなかったらしく、テスト中の事故で2機が全壊しています。
ちなみにWWⅡが終戦してかなりの年月を経た1950年初頭(設計は1948年から開始されていた)には、アメリカ海軍でXF2Yシーダートと名づけられたジェット水上戦闘機が現れ、試作機が音速突破しています。しかしテスト飛行と改修を重ねた結果、飛行性能を良好にする機体形状と、水上機として要求される機体形状とは両立し得ないと判断されて開発中止となり、現在に至るまでの最後の水上戦闘機種となっています。
まずは変り種のブラックバーンB.44です。飛行中の姿を見ると水上機というよりも飛行艇に見えます。この機種はイギリス航空省の要求仕様N.2/44という単座飛行艇戦闘機を求める要求に、ブラックバーン社が応じて設計開発したものです。横顔図を見たら判るように単フロートが稼動式となっており、飛行時には機体ボディ腹部に合体収納されます。両翼に位置する小さな補助フロートも前方に折り曲がって主翼と一体化されます。これらのフロートの稼動は油圧式を採用していました。水冷H型24気筒のネイピア製セイバーエンジン(2,000馬力)を搭載して二重反転プロペラも採用。武装は20mm機関砲4門を搭載予定。空力に優れたフォルムで、エンジンや武装も当時としては強力なものを採用しています。
この引込みフロートの方式、ブラックバーン社ではブラックバーンB.20と呼ばれる双発の試作哨戒飛行艇を1939年頃に手がけた事もある(正式採用はされていません)もので、今回はその稼動フロートの2回目のチャレンジで社運をかけたものでありまた。しかしブラックバーンB.44はテスト飛行で飛行中に深刻なコントロール不足に陥る特性が発覚し開発が暗礁に乗り上げます。また、搭載するセイバーエンジンの供給不足と合い重なってあえなく開発中止。飛ばすと危なかしくてしょうが無い機体に、最新鋭のエンジンは勿体無くて渡せないって感じです。
ちょいと脱線しますが、この水冷H型24気筒のネイピア製セイバーエンジンは、ホーカー・タイフーン戦闘攻撃機に重点供給されました。しかしこのタイフーンだって初期量産機は急降下からの引き起こし時に尾部が折れやすいことが判明した危険な機種でありました。
そして最後に登場はサンダース・ローSR.A/1です。帝国日本海軍の二式水上戦闘機の成功に着想したサンダース・ロー社は、飛行艇タイプであればフロートタイプと違って走波性も高く、新機軸なジェットエンジンを搭載すれば、ものすごい水上戦闘機が実現すると発想します。
さっそくイギリス航空省にその机上案を持ちかけ、要求仕様E.6/44の発行を獲得します。1944年5月に試作機3機の開発契約を取り付けさっそく机上案を具体化すべく設計開発を進めましたが、いかんせん当時のジェットエンジンが、たかが飛行艇のプロトタイプにすんなり提供される訳が無く、試作1号が完成したのは1947年。WWⅡは1945年に終戦してしまっていて、飛行艇型戦闘機なんて要らないと判断されるのは当然の事で、やはり開発中止となりました。合計3機完成していた試作機は1951年までテスト飛行されていましたが、コクピットが狭く飛行中の視界確保にも難渋し、飛行性能も思わしくなかったらしく、テスト中の事故で2機が全壊しています。
ちなみにWWⅡが終戦してかなりの年月を経た1950年初頭(設計は1948年から開始されていた)には、アメリカ海軍でXF2Yシーダートと名づけられたジェット水上戦闘機が現れ、試作機が音速突破しています。しかしテスト飛行と改修を重ねた結果、飛行性能を良好にする機体形状と、水上機として要求される機体形状とは両立し得ないと判断されて開発中止となり、現在に至るまでの最後の水上戦闘機種となっています。
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今回はWWⅡ当時における日本帝国海軍以外での水上戦闘機の話題です。
まずは、アメリカ海軍のF4Fワイルドキャットの水上戦闘機化です。日本軍の二式水上戦闘機が島嶼争いで有用だと感じたアメリカ海軍は、1942年に当時の主力艦上戦闘機であったF3Fワイルドキャットの水上機改造を計画します。1943年2月に完成した試作機はエド社にて改造されたもので、非公式社内呼称はF-4F-3Sワイルドキャットフィッシュ。双フロート式が採用されておりそのフロートの後方には補助舵が装備されていて、水平尾翼にも縦型の補助尾翼が装備されてました。胴体最後方の下部にも尾翼フィンが追加されており、飛行時の方向安定性確保に苦労した事が表れています。もちろん飛行性能はオリジナルのF4Fワイルドキャットと比べるまでもありませんでした。1943年の後半ともなると、太平洋戦線はアメリカ軍の絶対的優位な状況になっており、また必要であればすぐに現地飛行場を確保出来る工業力を保有しているし、小型護衛空母なら毎月どんどん就役してくる状況となった為、わざわざ性能の劣った水上戦闘機を使用せずとも良いと結論されて、F-4F-3Sは2機の試作のみで量産されませんでした。
そしてイギリスでは名機スピットファイアを用いて水上戦闘機開発を少なくとも3度試みています。
ドイツ軍がフランス侵攻とともに、デンマーク・ノルウェー侵攻を始めた頃、ノルウェーのフィヨルド内で使用するのを主目的とした水上機戦闘機の必要性が出てきました。イギリス航空省は安易に飛行場を建設出来ないノルウェー沿岸で水上戦闘機を使おうとしたのです。
で水上機化のベースは、新型機なのに性能悪く余剰していたブラックバーン・ロックにフロートをくっ付けてノルウェーへ送ろうと思いついたのですが、冷静に考えると 「駄作機にフロートつけても駄作度が増すだけで戦力になるはずが無い」 と気付いたようで、当時の超最新鋭スピットファイアーMkⅢをベースに用いる計画に変更。その開発計画を実行するにあたり、既に量産ベースに乗っていたスピットファイアMkⅠで実験する事になりした。
こうして最初に具体化されたタイプ342と呼ばれるスピットファイアMkⅠの水上機型が実験機として1機完成し1940年に飛行テストを受けましたが、もたもた実験しているうちに、ノルウェーはドイツ軍に占領化されてしまい、イギリス本国自体がやばくなって来たので 「もう水上戦闘機なんて要らない」 って事になって、スピットファイアーMkⅢの水上機型(タイプ344)は完成するまでも無く開発中止。1機が完成していたタイプ342は通常の陸上型に戻されています。
数年後の1942年に再びイギリス航空省はスピットファイアの水上機型を求めます。エーゲ海南東方面でのドイツ軍空輸作戦を阻止するために水上機戦闘機が必要となったのです。ベースとなったのはスピットファイアMkⅤでやはり当時の最新鋭バージョンを選択しました。今回も双フロート式でしたががっしりとした大きな一枚板で双フロートを連結させ、垂直尾翼を拡大、さらに胴体最後部下面にフィンを追加装備した形で4翔プロペラと熱帯用キャブレターインテイクも採用されました。この機種はタイプ355と呼ばれ1943年にようやく3機が揃いましたが、その頃のエーゲ海南東方面の制空権は完全にドイツ軍のものとなっており、活躍の場を失ったタイプ355はエジプトのグレートビター湖で訓練飛行しただけで実線に出ることなく生涯を終えています。
懲りないイギリス航空省は、1944年にまたスピットファイアの水上戦闘機化を計画します。ヨーロッパ戦線の反撃目星が付きそうなので、ぼちぼち東南アジアに航空隊を送り込んで本格的に対日戦しようかと考えたのがその原因です。今回もバリバリの最新鋭であるスピットファイアMkⅨをベースに双フロート式の同じような尾翼改造した実験機を製造しまずまずのテスト飛行結果を得てタイプ385と呼ばれました。でもテスト飛行だけでその開発はそのまま放置になってます。結果的にイギリスの戦闘機開発は、スピットファイアのグリフォンエンジン化、シーファイアの運用性向上、テンペストの開発に力を注いでますから、水上機戦闘機開発の放置は正解でした。
あちゃ~、ワイルドキャットとスピットファイアの水上戦闘機化だけでこんなに文章が長くなってしまった。次回コラムは、その他の水上戦闘機種って事で続きを書くとします。
滑走路を作らずとも砂浜沿いの海に係留出来て、離水したあとの飛行性能は陸上型戦闘機と変わらぬ空戦性能を持つ。そんな便利なカテゴリーが水上戦闘機。しかし、陸上戦闘機の車輪に引込脚が導入され普及すると、フロートが付いている水上機は空力的不利から逃れられない。そんな状況下のWWⅡ当時、実際にある程度量産して上で実線配備されたのは、日本帝国海軍の二式水上戦闘機(A6M2-N)と強風(N1K1)だけでありました。滑走路建設の重機を持たずに島嶼争奪戦を行なわなけれいけない日本にとって、非常に欲したカテゴリーでした。
二式水上戦闘機(A6M2-N)は、ゼロ戦22型(A6M2)をベースとして単フロートをくっ付けた急増機体です。急増したきっかけは本格的な水上戦闘機として開発していた15試水上戦闘機(後々の強風)の完成が遅れに遅れていたか らです。で、二式水上戦闘機(A6M2-N)は、ゼロ戦22型(A6M2)の本家である三菱が忙しかったので中島飛行機で開発・ 製造されて327機の生産数。中島飛行機でもゼロ戦22型(A6M2)の生産を行っていたので無理なく二式水上戦闘機(A6M2-N)が完成しています。連合軍が名づけたニックネームはRufe(ルーフェ)。
当時最強と言っても過言の無いゼロ戦22型(A6M2)がベースですが、重くて(約200kg増)しかも空気抵抗があるフロートが付いてるので、敵の主力戦闘機と正面きってドッグファイト出来る程の戦闘能力は無いです。しかも主翼に装備されている20mm機関砲も本機に継承されていましたし、爆撃機や偵察機相手の迎撃くらいはそつなくこなせています。現にWWⅡ初頭では、千島列島~アリューシャン列島にかけての北方戦線や、マーシャル諸島~ソロモン諸島にかけての南方諸島で、陸上基地不要の戦闘機隊として最前線で防空・護衛任務に活躍していますし、やむなく交戦したF4Fワイルドキャットを見事に撃墜している記録もあります。ガダルカナル争奪戦の頃にはアメリカの物量に戦況自体が圧されてきた上に敵戦闘機の性能向上もあり、活躍の場を失ってきて1943年に前線から退役しています。
1942年にやっと試作機の初飛行がかなった本格派の水上戦闘機が川西航空機製の強風(N1K1)です。空冷14気筒 の火星一三型エンジン(1,460馬力)に単フロートを装備し最大速488km/h、高度4,000mまでの上昇が4分11 秒という水上戦闘機としては抜群の性能を有していました。固定武装は二式水上戦闘機と同じで7.7mm機 銃2丁と20mm機関砲2門ですが、30kgまでの爆弾を2個懸架出来ました。
しかしそんな高性能な機体が量産可能になったのは1943年迄ずれ込んでしまいました。もはや水上戦闘機が活躍すべき時期を逸しており総生産数は97機のみとなっています。少数ながらアンボン島やペナン等のインドネシア方面に実線配備された機体は、B-24リベレータやB-29の撃墜を記録しています。しかも、そのような本格的な爆撃機相手には、時限式30kg爆弾を敵機上空で投下して撃墜する戦法を取っていたようですから驚きです。
このように高いポテンシャルを持った強風(N1K1)の設計は、陸上使用の局地戦闘機として改修される事となります。フロートが付いててこんな性能良いのだったら、フロート取ったらものすごくなるとい う安直さです。しかしその改修設計が紫電(N1K1-J)、および紫電改(N1K2-J)を産み出して一応の成功となっています。両機の特徴でもある空戦フラップについても、既に強風(N1K1)で実装テストが行われていますし、試作1号機は二重反転プロペラのテストもしており、川西航空機 がこの水上戦闘機に注いだ技術は並々ならぬものであった事が窺えます。
日本の2機種だけで文章が長くなってしまったので、その他の国については次回コラムに回す事にし ます。
二式水上戦闘機(A6M2-N)は、ゼロ戦22型(A6M2)をベースとして単フロートをくっ付けた急増機体です。急増したきっかけは本格的な水上戦闘機として開発していた15試水上戦闘機(後々の強風)の完成が遅れに遅れていたか らです。で、二式水上戦闘機(A6M2-N)は、ゼロ戦22型(A6M2)の本家である三菱が忙しかったので中島飛行機で開発・ 製造されて327機の生産数。中島飛行機でもゼロ戦22型(A6M2)の生産を行っていたので無理なく二式水上戦闘機(A6M2-N)が完成しています。連合軍が名づけたニックネームはRufe(ルーフェ)。
当時最強と言っても過言の無いゼロ戦22型(A6M2)がベースですが、重くて(約200kg増)しかも空気抵抗があるフロートが付いてるので、敵の主力戦闘機と正面きってドッグファイト出来る程の戦闘能力は無いです。しかも主翼に装備されている20mm機関砲も本機に継承されていましたし、爆撃機や偵察機相手の迎撃くらいはそつなくこなせています。現にWWⅡ初頭では、千島列島~アリューシャン列島にかけての北方戦線や、マーシャル諸島~ソロモン諸島にかけての南方諸島で、陸上基地不要の戦闘機隊として最前線で防空・護衛任務に活躍していますし、やむなく交戦したF4Fワイルドキャットを見事に撃墜している記録もあります。ガダルカナル争奪戦の頃にはアメリカの物量に戦況自体が圧されてきた上に敵戦闘機の性能向上もあり、活躍の場を失ってきて1943年に前線から退役しています。
1942年にやっと試作機の初飛行がかなった本格派の水上戦闘機が川西航空機製の強風(N1K1)です。空冷14気筒 の火星一三型エンジン(1,460馬力)に単フロートを装備し最大速488km/h、高度4,000mまでの上昇が4分11 秒という水上戦闘機としては抜群の性能を有していました。固定武装は二式水上戦闘機と同じで7.7mm機 銃2丁と20mm機関砲2門ですが、30kgまでの爆弾を2個懸架出来ました。
しかしそんな高性能な機体が量産可能になったのは1943年迄ずれ込んでしまいました。もはや水上戦闘機が活躍すべき時期を逸しており総生産数は97機のみとなっています。少数ながらアンボン島やペナン等のインドネシア方面に実線配備された機体は、B-24リベレータやB-29の撃墜を記録しています。しかも、そのような本格的な爆撃機相手には、時限式30kg爆弾を敵機上空で投下して撃墜する戦法を取っていたようですから驚きです。
このように高いポテンシャルを持った強風(N1K1)の設計は、陸上使用の局地戦闘機として改修される事となります。フロートが付いててこんな性能良いのだったら、フロート取ったらものすごくなるとい う安直さです。しかしその改修設計が紫電(N1K1-J)、および紫電改(N1K2-J)を産み出して一応の成功となっています。両機の特徴でもある空戦フラップについても、既に強風(N1K1)で実装テストが行われていますし、試作1号機は二重反転プロペラのテストもしており、川西航空機 がこの水上戦闘機に注いだ技術は並々ならぬものであった事が窺えます。
日本の2機種だけで文章が長くなってしまったので、その他の国については次回コラムに回す事にし ます。
当たり前の話ですがどんな名機であっても年月を経て最終的にはスクラップとなります。運が良ければ博物館で丁重に保管されたりしますが、戦闘で破損せず無傷であっても躯体の耐用年数がありますし、優秀な後継機種が出来て交代なんて事になります。で、今回のテーマはスクラップの話ではありません。スクラップするまでも損耗していないが、本来の任務機としては第一線から引退させないといけない場合の話です。WWⅡ当時の軍用機は進化が早かった期間ですから、メイン任務から外れた機種なのに沢山作りすぎて結構余っちゃったていうケース。また、実戦配備当初に駄作だった事が発覚して既に作ってしまったとか、設計段階で早々に量産発注して完成したら駄作機だったとかってのもあります(特にイギリス機がこのパターン多い)。
ではWWⅡ主要参戦国は、そういう軍用機をどうしていたかっていうと、
① 「同盟国に買って貰う」が一番ベストです。「世界の兵器工場」を自負していた米国なんて、イギリスを初めとする英連邦諸国やソ連、南アメリカ諸国などにうまく余剰機種を販売して儲けたりしています。ソ連へ販売したP-39エアラコブラや、フィンランドへのB-239(F2Fバッファローの輸出型)なんて、なまじっかそっちの国で大活躍とかしちゃって感謝された成功例もあります。
② 「後方支援的な輸送機や哨戒機に改造して使う」。中大型爆撃機なんかは輸送機に改造出来易いです。
③ 「練習機に格下げする」。戦闘機の引退後はこのケースが多かったですが、操縦性の素直な機体が望まれます。大中型機であっても無線練習や銃座射撃訓練に使用する機上練習機に転向させるってのもこのケースでしょう。
④ 「連絡機・気象観測機に使う」。複座以上の機種で後続距離が比較的長いのであれば転向出来ます。離着陸が短距離で済む機種なら打ってつけです。
②のケースが各国で行なわれたのは容易に想像が付きます、③のケースは結構機種が限定されますし、練習機として専門に開発された機体も存在するのであまり数が要るものではありませんが、フィンランドやルーマニアなど空軍力が未成熟な国ではこのケースが多いものでした。④のケースもそんなに数が要るもんじゃありません。
そして今回の本題、⑤ 「標的曳航機に改造して使い切る」。⑥ 「その他の特殊な用途に使う」。のケースについては色々と具体例をあげてニンマリしましょう。
まずは、先に⑥ 「その他の特殊な用途に使う」 の具体例を挙げていきます。以前のコラムでも書きましたが、ドイツの双発爆撃機トリオの余剰機体は、ミステル飛行爆弾の母機に使われたりしています。またHe111なんて2機をくっ付けてHe111Zという巨大グライダーを曳航する機体に改造されてもいます。日本では悲しいかな終戦末期に余っていた二線級機体は武装等重いものを降ろして片道燃料だけ積んだ特攻仕様なんかに改造しちゃっています。この時に搭載する爆弾なんてワイヤーでぐるぐる巻きに胴体腹部に巻きつけただけのケースもありました。一式陸上攻撃機はロケット機桜花を腹部にくっ付けて戦闘地域まで曳航しています。
イタリアは連合軍に降伏した時点で上層部から何の指示も受けられずに連合軍やドイツ軍に接収された余剰機体がたくさんありました。SM.85は地中海気候にも関わらず余剰機体を露天放置していたら風化しちゃいました。英海軍の艦上戦闘機ブラックバーン・ロックは単発機でありながら後方動力銃座を搭載したが為に重くて艦上戦闘機としてすぐに引退させられた機種ですが、陸上基地に放置して二次利用先を相談しているうちに、その基地が空襲を受けて露天係止していたブラックバーン・ロックが離陸せずに動力銃座を使って実際に何機かのドイツ機を撃墜したって話もあります。また、フェアリー・ヘンドンという機体は15機を完成させたのだが飛行そのものが危なっかしくて、無線訓練や作業用訓練として「飛行させてはいけない練習機」に任命されたりしています。
⑤ 「標的曳航機として改造して使い切る」 も各国で行なわれましたが普通はそんなに数が必要なものではありません。だがしかし大変、イギリスはこの標的曳航機に格下げされた機種(標的曳航機としてしか使い道が無かった機種)が多いのってなんの。当時イギリスは英連邦宗主国であるのに、余剰機種を半分無理やりに売りつけられる国があったはずなのに断固拒否されたのでしょうか? やたら標的曳航機になった機種が多い。実際にある程度の数が標的曳航機になった機種は、ウエストランド・ライサンダー、ブラックバーン・ボウタ、ブラックバーン・スキュア、ボールトン・ポール・デファイアント、フェアリー・バトル、ホーカー・ヘンリーです。デファイアントに至っては200機を越える機数が標的曳航機になっています。しかもそれでも足らなかったのか、イギリスはなんと同時期にアームストロング・ホイットワース・アルベマールや、マイルズ・マーチネットという標的曳航専用機まで量産しっちゃっている(2機種だけでも約2,300機)から不思議です。標的曳航機だけでパレードが出来そうです。
ちなみに現在では、標的を曳航しなくても標的自体で飛行できる無人の無線標的が使われてます。腕の良かった標的曳航機パイロットは無線標的機操作員の教官にでもなっているのでしょうか?
ライト兄弟(ウィルバー・ライトとオービル・ライト)がライトフライアーⅠ型で世界初の飛行(ガソリンエンジンを搭載した有人機での初飛行)という偉業を成し遂げたのが1903年12月17日。ノースカロライナ州のキティホークという場所で12秒飛んのがその偉大な記録の飛距時間。
こんな冒頭の書出しをすると、ライト兄弟や、二宮忠八、モジャイスキー、ラングレーなど飛行機としての初飛行な偉人達の話題をするのかと思わせがちですが、これは単なる冒頭のエピローグ文でした。それぞれの偉人達の名前をググッって見ると、それぞれの条件要素付きで「世界一の内容」が具体的に書かれたサイトがあります。
今回は、そのライト兄弟が12秒飛行した約5年半後の1909年7月。ドーバー海峡を横断飛行したブレリオⅩⅠという飛行機のお話。わずか5年半で36分55秒(約45kmの距離)を飛んだ飛行機が存在するんだから、飛行機の技術進歩はすごいものである。
出発地はフランスのカレー近郊のバラックという辺りです。ブレリオⅩⅠだけが単独でチャレンジしたのではありません。ロンドンのデイリー・メール新聞社が「ドーバー海峡横断飛行に成功したら賞金1000ポンド」と宣言した一大イベントであったのです。横断飛行イベントに参加したのは、フランスの航空技術者ルイ・ブレリオが搭乗するブレリオⅩⅠ、そして熱気球でドーバー海峡を横断飛行した事もあるユーベル・ラタムが搭乗するアントワネットⅣ、エッフェル塔を50回も旋回飛行した記録を持つド・ランベールが搭乗するライトフライアー・モデルA号の3機でした。
最初に出発したのは、ユーベル・ラタムのアントワネットⅣですが、出発して11km進んだ洋上でエンジンが故障してリタイア。ド・ランベールのライトフライアー・モデルA号は練習中に機体を壊して出発も出来ずに終わっています。結果的にブレリオⅩⅠ機だけが、エンジン(空冷25馬力)のオーバーヒートに悩まされながらもドーバー海峡横断飛行を成し遂げました。
ルイ・ブレリオは、デイリー・メールの懸賞を獲得したのみならず、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与され、さらにこの歴史的偉業を記念して、出発地の海岸は「ブレリオ海岸」と命名されています。
この偉業を成し遂げたブレリオⅩⅠにはもうひとつの初がありました。スロットルを上下する事によって機首の上下(ピッチ)、スロットルを左右に倒すことによって機体を左右に傾ける(ロール)、足元のペダルを動かす事によって機首の左右向き(ヨー)を操作するという、現在まで主流となっている3軸操縦が取り入れられた1号機です。もちろんこの時代の機体ですから、ヨーイングの仕組みはエルロンという物がなくて、主翼のねじれが使用されています。
ドーバー海峡横断を成し遂げたブレリオⅩⅠは当然の如く注文が殺到(100機を越えていた)し、ブレリオ工房は繁忙を極める事になります。量産型のブレリオⅩⅠは、横断機に比べ随所に改良が施され、後期型はノームロータリーエンジンなど、強化された各種エンジンが搭載され、各国の航空隊創生期の代表的な装備機となっています。1914年に勃発した第一次世界大戦でも、フランス、イギリス、イタリア、トルコ等の航空隊で、弾着観測や水平爆撃(25kg爆弾)に使用されています。
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Task-M by masa206
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